■「義を重んじる」との後世の評価につながった
やがて、織田方となっていた母方の伯父、刈谷城主・水野信元の使者から義元死亡の情報が寄せられて確信するが、ここでも慎重だった。
家康は「闇夜に退却すれば混乱する。それよりは月が出るまで待とう」と言い、結果、その判断が功を奏し、夜更けには三河の池鯉鮒(知立市)に到着した。
翌二〇日、池鯉鮒を出た家康の軍勢は岡崎を目指し、懐かしい城の姿を目にする。
君臣が夢にまで見た岡崎城の奪回が、もうすぐそこまできている。岡崎城には駿河衆が詰めていたが、敗戦の混乱に乗じ、奪い取るという選択肢もあった。ここで家康は大きな決断をする。
「神君(家康)はこのまま入城したら今川への礼を失することになると考え、城へ入らず、大樹寺(松平家の菩提寺)に駐屯した」(『武徳編年集成』)のである。
そして、家康は義元が討ち死にしたことを城内に伝え、三日待った。
二三日、岡崎城の駿河衆はようやく義元の死を確信したらしく、城を後にし、残ったのは三の丸に籠もる松平家の家臣たちばかり。
例の『三河物語』はこのとき、家康に「捨てた城なら拾おう」と言わせている。確かに今川勢が城を捨てて退却したのは事実だ。
こうして家康と家臣たちの夢はかなうわけだが、相手が退却するまで待った家康の決断が「義を重んじる」という後世の評価につながったと『武徳編年集成』はいう。
確かに家康の三河平定とその後の天下取りに、そのことが大きなプロパガンダとなったのは間違いない。
跡部蛮(あとべ・ばん)1960年、大阪府生まれ。歴史作家、歴史研究家。佛教大学大学院博士後期課程修了。戦国時代を中心に日本史の幅広い時代をテーマに著述活動、講演活動を行う。主な著作に『信長は光秀に「本能寺で家康を討て!」と命じていた』『信長、秀吉、家康「捏造された歴史」』『明智光秀は二人いた!』(いずれも双葉社)などがある。