■東京大学に合格後

『世界ふしぎ発見!』以外にも数々の人気番組に携わってきた草野は、終戦の1年半前、1944年(昭和19年)2月に満洲国の新京で生まれた。

「終戦後、父親はシベリアに抑留され、残った母、2人の兄、姉、そして私は母の実家がある長崎の島原に移ります。 幼かったものですから満洲での記憶はありません。また、父親の顔を認識したのは、終戦の4年後に釈放されて日本に戻ってきたときが最初です。子どもの頃は勉強をあまりせず、家の裏にあった柿の木に登るなど遊んでばかりいた記憶があります。活発でしたので、小学校、中学、高校と仲間内では常にリーダー的な存在でした。年が離れた2人の兄は、いずれも理科系で、東京大学に現役合格しています。私も兄に続けと高三のときに東大を受けるんですが、なにしろ勉強をしていないので、見事に落第します」

 一浪後、東大に合格。文学部社会学科で優秀な成績を収め、やがて就職を考える時期を迎えた。

■これからはテレビ放送の時代

「64年の東京五輪でテレビが普及したこともあり、“これからはテレビ放送の時代だろう”と思い、取材記者を目指してNHKを受けました。願書は記者志望で提出し、運よく試験にパスするのですが、採用通知を見て、びっくりしました。“アナウンサーとして採用する”と書いてあったんです。あとで分かるんですが、その時代のNHKは、さまざまな事象に対応できる人材を育てるべく、志望者以外もアナウンサーとして採用していたんです。当時、重複受験を防ぐためにマスコミ各社の入社試験は、すべて同じ日でした。つまりNHKしか受けていなかった。私は就職浪人もできなかったので、アナウンサーの道を選びます」

 当初の希望に反し、アナウンサーという職についたが、目標を見出し、鹿児島、福岡、大阪と各支局に転勤し、スキルを磨いていった。

「記者志望だったものですから、アナウンサーが自分で取材をして、それを表現ができるスポーツの担当を希望しました。鹿児島で県の高校野球の実況から始め、福岡では国際マラソン、“黒い霧事件”で弱体化した西鉄ライオンズの試合などを担当いたしました。大阪に転属してからは春夏の高校野球の決勝、それから、モントリオール五輪の中継要員として派遣されたことも印象に残っています。

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