勝利の美酒に酔いしれることなく、王者で居続ける。それが黄金時代!各球団の輝かしい時代を徹底検証!
球界の盟主と呼ばれたのも今は昔。巨人が最下位争いをする中、セ・リーグではヤクルトが、パ・リーグではオリックスが3連覇に挑んでいる。
達成されれば“黄金時代”と呼ぶにふさわしいが、今回は、今なお語り継がれる、12球団各チームが最も強かった時代を、当時をよく知る識者たちの証言で、探っていきたい。
■長嶋茂雄&王貞治が躍動
まず、長い球史の中でも、最強と思われるのが、9年連続日本一を成し遂げた1965年からの“V9”時代の巨人だろう。
川上哲治監督の下で“ON”長嶋茂雄&王貞治の2大スターが躍動した時代だ。
「9年間の通算勝率は、6割6分8厘と他を圧倒。その間、ONはMVPをほぼ独占(72年のみ、26勝の堀内恒夫)、2人だけで獲得したタイトルは驚異の“二十四冠”。今ではありえません」(スポーツライター)
当時の巨人が強かった最大の要因は、川上監督が「ONを特別扱いしなかったこと」(前同)だという。つまり、川上巨人の名参謀・牧野茂コーチに叩き込まれた“チームへの献身”こそが、V9の原点なのだ。
自身もV9中の71年に新人王に輝いた、OBの関本四十四氏も、こう語る。
「最近だと、犠打や進塁打でベンチに戻ってきた選手を、仲間がハイタッチで出迎える光景をよく見るけど、あんなの、僕らの頃じゃ考えられない。他のどのチームより勝ちに対して貪欲で、選手全員、あらゆる状況に対処できて当然。それが当時の巨人だったからね」
実際、“できて当然”なプレーの失敗には、厳しいペナルティも。そのつど課された“罰金”のせいで、手取りの給料が赤字になることもあったという。
「犠打失敗で3000円、サイン見落としで5000円。貯まったお金は納会で還元されるんだけど、当時の僕は年俸も100万円ほど。そこから寮費や用具代、保険料も払うから、本当に残らなかった」(前同)
チームプレーの成功は、自身の打撃技術だけではなく、前後の打者の走力も関係してくるが……。
「そうなんだよ! 前を打つ8番が、鈍足だった森(祇晶)さんから河埜和正になったときはうれしかった。江夏豊や外木場義郎の速球は犠打をするのもひと苦労で、それが二塁フォースアウトじゃ、たまったもんじゃないからね」(同)
一方、強すぎるチームは弊害も生んでいたという。
メンバーが固定された1軍は、他球団とは比較にならない“狭き門”。万年2軍の面々には、腐ってしまう選手も少なくなかった。
「どんなに練習をしても、上がるチャンスはほとんどない。僕自身は“ONが現役の間に1球でもいいから1軍で投げる”という一心でやっていたけど、やっぱり2軍の空気は、かなり淀んでいたね」(同)
そんな関本氏は4年目の71年に念願の1軍昇格。阪急有利と言われた同年の日本シリーズ第3戦では、9回を1失点に抑えて、球史に残る王の劇的逆転3ランを呼び込んだ。
「それ以降、若い江川卓や西本聖がすごい活躍をしようと、“おまえら、右向きゃ長嶋、左に王、なんて状態で投げたことないだろ”って思ってたよ。死ぬまで自慢できるよね(笑)」(同)