■巨人と西武のオーナーの共通点

 そして、V9達成から2年後の75年オフ、関本氏はライオンズにトレード。他球団を知ることになる。

「改めて、巨人の選手たちの意識の高さを感じたよ。ゲーム差0でV10を逃した直後は、全員が心底落胆してて。当時2年目の小林繁が“どこかに、もう1試合残ってないか、連盟に電話しましょう”って真顔で言うのを見て、ようやく和めたぐらいだったね」(同)

 そのトレード相手だったのが、のちに“西武の頭脳”と称される伊原春樹氏だ。

 西鉄から太平洋、クラウンを経て、西武となったライオンズは、身売りから、わずか4年の1982年に、日本一を勝ち取った。

 伊原氏は78年にライオンズに出戻り、80年に引退。翌年からコーチとして、その栄光を味わった。

「もちろん“寝業師”と呼ばれた根本(陸夫)さんの手腕もあったけど、やっぱり一番はオーナーの堤(義明)さん。あの人が、移転初年度に全選手・スタッフの前で“盟主・巨人に追いつけ、追い越せ。日本一のチームになってくれ”とぶった演説は、今でも鮮明に覚えているよ」(伊原氏)

 とはいえ、万年Bクラスに慣れきった古株の中には、そんな新参オーナーの熱弁を、「何を言い出すのか」と冷笑する者も多かった。

 だが、巨人を知る伊原氏は、その言葉に説得力をヒシヒシと感じていた。

「巨人には2年間しかいなかったけど、キャンプ初日に正力亨オーナーが来て、“今年も優勝目指してやってください”と必ずやる。あれには“これが優勝を目指すチームか”と感心したもんだよ。西鉄時代にオーナーが現場に来たなんて、1、2度あったぐらい。その点でもガラッと雰囲気は変わったよね」(前同)

■広岡達朗、森祇晶の下“常勝軍団”に

 その後、西武は“V9戦士”でもある広岡達朗、森祇晶の下、82年からの14年間で11度のリーグV、8度もの日本一に輝く“常勝軍団”に変貌した。

 当の伊原氏も生え抜きのコーチとして、両監督の手腕をつぶさに見届けた。

「監督としての根本さんは細かいことは言わない“放任主義”。そこへ水原(茂)さん、川上さん仕込みの広岡さんが入ってきて“管理野球”を叩き込んだ。“白米はダメだ。玄米を食え”と食事にまで口を出すほど。当時の選手たちからは反発もあったと思いますよ。その厳しさは森さんにも通じるけどね」(同)

 だが、その指導は優勝という結果となって現れ、同時に年俸や待遇も変化した。

 2位オリックスに12ゲーム差もつけて優勝を飾った90年、秋山幸二、清原和博、デストラーデの“AKD砲”は全員、35本塁打以上、90打点以上をあげる大活躍。清原は高卒3年目にして当時、史上最速の1億円プレーヤーとなった。

「優勝すれば、年俸は上がり、待遇もよくなる。多くの選手が、そこで“優勝とは、こんなにいいものか”と気がついた。となれば次は“こんなにいいものを他人に譲ってなるものか”。そんな思いがチーム内競争という好循環を生む」(同)

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