■落合博満“昭和の驚愕特訓”
落合の特訓は今も昔も考えられないものだったとか。
「ホームベースの後ろにピッチングマシンと正対して立ち、飛び出して来る球をバットで左右に弾くというもの。巨人時代、解説者の関根潤三氏が一度だけ見学を許されたことがあったんですが、感想を求めても、ただただ首を振るばかり。感心よりも衝撃を覚えた様子でした」(前同)
もしONや落合が、大谷と同条件で体を鍛えつつ、独自の特訓をできていたら……と夢想してしまうが、愛甲氏は、至近距離で見たそのすごみをこう語る。
「オチさんにとって重要なのは“いかにムダなく最大の結果を出すか”。仮に今のノウハウが当時あっても、その点は変えなかった気がするね。そして、一貫して“野球に必要な力は、野球でつける”という考え方を持っていた。キャンプでは、とにかくノックで下半身を鍛えて、シーズン中はバットより重たいものは一切、持とうとしなかったし……」
■巨人の4番を受け継いだ松井秀喜
その落合から“巨人の4番”を受け継いだのが、平成を代表する大打者、ゴジラこと松井秀喜だ。
ヤンキース時代の09年に、日本人初のワールドシリーズMVPを獲得。渡米初年度の03年から続けた3年連続全試合出場&100打点超えは、“鉄人”大谷さえなしえない大偉業だ。
「高校時点の完成度で言えば、松井のほうが大谷より圧倒的に上。インパクトの強さやボールを捉える能力は、当時から尋常じゃなかったよ」(愛甲氏)
自身も甲子園のスターとして活躍した愛甲氏はこう語るが、その後の彼らの違いを、こう続ける。
「松井は何でもできる大谷や、同年代のイチローと違って超不器用。守備や走塁、スイング一つ取っても、華麗さとはほど遠い。彼にもし逆方向にも難なく本塁打が打てる器用さがあれば、もっとすごい成績を残せたんじゃないか」(前同)
当時の長嶋監督が「このままではプロの変化球は打てない」と、育成のために“1000日計画”を打ち出したのは有名な話。
「長嶋監督が松井に求めた理想の打球は右中間への弾丸ライナー。今も巨人の裏方さんの中で言われている伝説があるんですが、“打撃練習でジャストミートした松井の打球から、キナ臭い匂いがした”というもの。文字通り、火花散る弾丸ですよ。後にも先にも、こんな話は聞いたことがない」(前出のMLB担当記者)
規格外のパワーを誇った松井だが、特筆すべき点はまだある。
「松井も含め、大打者に共通しているのは、何より体が丈夫だったこと。ONの2人も、毎年オープン戦の初戦から、日本シリーズ最終戦まで、当たり前のように出続けた。大スターの彼らが“レギュラーは簡単に休んじゃいけない”を体現する存在だった、というのは、今とは大きく違うよね」(愛甲氏)