■西武ライオンズと因縁

 時は流れて、前年Vの西武が、巨人を相手に王手をかけた87年の第6戦。監督となった王との浅からぬ因縁から、試合中に男泣きを見せたのが当時プロ2年目、弱冠二十歳の清原和博(56)だった。その様子をベンチで見ていた“西武の頭脳”伊原春樹氏が振り返る。

「吉村禎章の遊ゴロをさばいて、あとアウト一つの場面で二塁手の辻発彦が急にタイムをかけてね。泣いているとまでは分からず、“アイツらは何をやってんだ”という感じで見ていた。ただ、巨人入りが確実視されていた中で、他ならぬ桑田真澄にドラ1の座を奪われた、その悔しさは察するに余りある。相手ベンチに王さんがいたことで、感極まったんだろうね」

 ちなみに、「9回の守備につくとき、突然、体にガタガタと震えが来た」と後に語った清原は、試合終了後の囲み取材で、「プロ入り時から打倒巨人が目標ですから」と、毅然とコメント。KK事件への直接の言及はなかった。

 だが、前出の伊原氏は、「あの一戦で、彼の巨人軍への思いはかえって強くなったのでは」とも続ける。

「その後も直接問いただすようなことは特になかったけど、思いはずっと秘めていたんじゃないか。FA移籍の96年なんかは、終盤になるにつれて、身につけるものにオレンジ色が増えていた。見れば聞かずとも分かったよ。“これは行くだろう”ってね(笑)」

■野村ID野球でイチロー封印

 一方、監督とコーチで何度も日本シリーズを戦った伊原氏が「最も印象に残る対戦」として挙げるのが、92年のヤクルト対西武。野村克也対森祇晶(86)の名捕手監督の初対決となった。

 西武有利と目されていたが、第1戦でヤクルトの杉浦亨から劇的な代打満塁サヨナラ弾が飛び出したことで一転。

 最終戦も石井丈裕と岡林洋一の両先発が一歩も譲らず、10回を投げきる文字通りの死闘となった。

「10回表に秋山幸二が打った犠飛が結局、決勝点になったけど、終盤はピンチの連続。三塁走者の広沢克己が行儀のいいスライディングをしてくれたおかげで、難を逃れた7回裏1死満塁の場面なんて、誰も声を発せなかったくらい、ベンチも緊張感で満ちていた。阪神へコーチで行ったときも、野村さんは“あれは広沢のバカが”とボヤいてたしね(笑)」(伊原氏)

 92年が森西武の最高到達点だったとすれば、95年は野村IDの全盛期だ。

 難敵イチロー(50)に対して仕かけた、メディアを巧みに使う野村流の心理戦は、今もなお語り草だ。

「打者なら誰もが苦手な内角高めが弱点と吹聴することで、イチローをあおったわけです。プライドを傷つけられた彼は、当然、そこに執着する。第5戦で、ブロスの内角高めを本塁打にしたのはさすがでしたが、キーマンをわずか5安打に抑えた“ID野球”の完勝でした」(スポーツ紙デスク)

 むろん、これらは短期決戦だからこそ有効だった奇策のたぐい。

「イチローに攻略法などなかった」と言う伊原氏は、こう続ける。

「野村さんのしたたかさは見事と言う他ないけど、もし当時のセ・リーグに彼がいたら、ヤクルトもたちまち対処されて、いいようにやられていたはずだよ。当時の彼には、本当に打つ手がなかったからね」

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