野茂英雄から大谷翔平まで「日の丸ドジャース戦士11人」激闘の軌跡の画像
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 刀の代わりにボールとバットで並みいる強豪との“真剣勝負”に挑んだ男たち。熱き挑戦をプレイバック!

 日本が誇る“至宝”大谷翔平(29)&山本由伸(25)の加入で、大リーグの名門ロサンゼルス・ドジャースに熱視線が注がれている。

「球団のCMO(マーケティング最高責任者)ロン・ローゼン氏が、2月の時点で“ここまでのすさまじさは初めて”とコメントするなど、かの地では目下“大谷特需”に沸いている。1995年に野茂英雄が巻き起こした“トルネード旋風”以来の盛り上がりかも」(スポーツ紙デスク)

 現地時間4月7日のカブス戦で山本がメジャー初勝利を挙げれば、8日のツインズ戦で大谷が第3号を放つなど、“侍ドジャース”は本領を発揮している。

 そこで今回、“ドジャーブルー”に袖を通した歴代日本人選手の足跡を辿りつつ、ドジャース球団の歴史を改めて深掘りしていこう。

“トルネード投法”で全米を!

 日本人に、その球団名を広めた立役者といえば、やはり94年オフに単身渡米した野茂英雄だろう。

 日本球界が“マイナーリーグ”扱いされていた時代。そこに現れたのが、唯一無二の“トルネード投法”から繰り出す宝刀フォークで、三振の山を築く26歳の野茂だった。固定観念を打ち破る投球で、LAのみならず全米中を熱狂させた。

 本誌でおなじみ、大リーグ評論家の福島良一氏も往時を振り返って、こう語る。

「当時、フォークは球団によって禁止令が出されるなど、肘を痛める“デスピッチ”と忌避される傾向が強かった。そんな中に速球とフォークだけで勝負を挑んだのが野茂でした。巷には彼のファンを指す“ノモ・マニア”なる言葉が生まれ、本拠地ドジャースタジアムには、牛丼の“𠮷野家”も進出した。その熱狂ぶりは、大変なものでしたね」

 この野茂の獲得という大英断を下したのが、当時の球団オーナーだったピーター・オマリー氏だ。

 父ウォルター氏と親子二代にわたる大の親日家でもあったこのオーナー一族の存在なくして、現在にまで連なる日本人選手のメジャー進出はなかったと言える。

「先代ウォルター氏が日本球界との関係を深める契機になったのが、まだブルックリンが本拠だった56年の日米野球。以来、氏は巨人と提携するなど日米間の野球交流を積極的に推し進め、息子ピーター氏も、その精神を継いで野球の国際化に向け、いち早く舵を切った。

 そこで会長補佐として“日米の架け橋”になったのが、故・アイク生原(生原昭宏)氏でした」(前同)

 生原氏は、米国留学で飛躍のきっかけを掴んだ、元中日・山本昌投手の“育ての親”としても知られる。

 同氏は野茂の渡米前の92年に病没したが、ドジャースの歴代日本人選手を語るうえでは欠かせない人物だ。

「野茂の活躍以降、ドジャースは日本人選手を積極的に獲得してきたが、その実務を取り仕切るアジア部門の部長を長年務めたエーシー興梠氏は、アイク氏の娘婿でもあるんです」(同)

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