そんな田中が遺した、苦境にある現代日本を救う方策とはなんだろうか。「戦後の大物政治家は、角さん以外はほとんど、旧帝大卒のエリート官僚だった。非常に優秀だが、決められたレールの上を走るのは得意でも、飛び抜けた発想をすることができない。角さんには実業家出身として、従来の政治家とはまったく違う発想力があったのです」(同)

 代表的な例が、田中が成立させたいわゆる「道路三法」だ。戦後日本の発展には道路が必要だが作るための財源がない。それなら財源を作れ、という考えのもとに生まれた法案だ。「現在でも政策が浮上するとまず“財源は”という議論が起こる。角さんの場合“財源がないなら作ればいい”と、ガソリン税、重量税という道路を作るための特定財源を生み出した。官僚からは決して出てこない発想です。田中土建工業を起業した経歴が彼の原点。角さんの言葉は常に具体的で、抽象論がないんです」(同)

 仕事の進め方も他の政治家とは大いに違っていた。「政治家は官僚とぶつかりがちだが、角さんは違う。学歴はなかったけれど、官僚は大好きで、優秀な官僚を使うのが抜群にうまかった。民主党政権が“霞が関なんて成績が良かっただけで大バカだ”と批判したのとは対照的ですね。角さんの場合、トップの事務次官や局長級ではなく、課長や課長補佐など現場の人間をかわいがって、そこから情報を取っていた。官僚は政治家に対して面従腹背で、大臣もどうせ1年で交代する、と内心バカにしているもの。しかし、勉強熱心で情報通の角さんは、たちまち官僚にも一目置かれ、9割もの官僚に慕われていました」(同)

 そして、これは、と見込んだ官僚を田中は参院選に自派から出馬させた。田中派の参院議員はほとんどが官僚出身で、それは大きな強みとなった。「角さんは毎朝8時から10時までの2時間、目白の自宅で人と会うことを日課にしていました。1組3分で、2時間で40組。彼らの陳情を聞いて、角さんが“分かった”と答えたときは“話は聞いた”という意味ではなく“その件は引き受けたから大丈夫だ”という意味。その場でOKを出すんです。そこで活きるのが現場を知り尽くした官僚出身の田中派の国会議員たち。角さんは“これはアイツにやらせれば大丈夫だ”と即時に決を下せるわけです。その一方で、角さんはできないことはその場で“そりゃダメだ”と即答した。世の中で一番傷つくのは、できると思っていたのに、後でダメと言われることですからね。人の心に通じた角さんらしい思いやりなんです」(同)

 かくして、田中派はどんな相談事を持ち込んでも対処してくれる「総合病院」と呼ばれるようになり、田中は霞が関と永田町を制したのだ。

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