5月の伊勢志摩サミットでも、この“気配り”は発揮されている。サミットで来日したオバマ大統領は、直前に起きた沖縄の米軍属による日本人女性殺害事件の影響で、かなり神経質になっていたという。

「オバマ大統領は終始不機嫌で、米大統領の広島訪問という歴史的なイベントを控えていた外務省は気が気じゃなかった。実はオバマ大統領は遅刻魔として有名で、外務省は遅刻されて予定が狂うことを恐れていたわけです」(全国紙政治部デスク) こうした懸念は、ただちに安倍首相に伝えられた。

「そこで安倍首相は、米側に“大統領は長旅でお疲れでしょうから、次の会議は1時間遅く開始しましょう”と提案したのです。これですっかりオバマ大統領の機嫌が直ったというから、たいしたものです」(前同)

 岸元首相の後を継いだのが、「貧乏人は麦を食え」で有名な池田勇人氏だ。官僚出身で吉田学校の番頭格だった池田内閣の一丁目一番地が、所得倍増計画だった。

「彼は所得倍増計画をこう説明しています。“私の政策は社会党とは違う。池田は3つの卵を4人で分けることはしない。3つの卵を6つに増やして3人で分けて、残った3つは貯金する。これが経済であります!”。かなり乱暴ですが、大衆受けは抜群。彼はスピーチの名手だったのです」(同)

 前出の浅川氏は、こう述懐する。「何度か池田さんの食事会に顔を出したことがありますが、最後は決まって出席者が全員輪になって前の人の肩に両手を乗せるのです。そして昭和14年のヒット曲『旅の夜風』を大声で歌いながら回ると、池田さんは男泣きするんですね(笑)。おそらく、歌詞の内容と自分の人生を重ね合わせていたのでしょう」 首相の座は池田氏から佐藤栄作氏に、そして現在ブームとなっている角栄氏に移る。その角栄氏の息の根を止めたのが、三木武夫元首相だ。実は三木元首相に関しては、当人よりも奥方の器量を絶賛する声が多い。前出の浅川氏も、その一人だ。

「三木さんの死後、睦子夫人が中心となって政治家、マスコミ関係者が集う『一七会』が発足しました。会の冒頭では睦子夫人が、“もし三木が生きていたら……”と切り出して、政局分析をするのですが、その観察眼の鋭いこと。彼女は政局の節目で、三木さんに助言していたはずです」 三木元首相の後、福田赳夫、大平正芳、鈴木善幸、中曽根康弘と首相の座は移り変わるが、首相在任1806日を数えた中曽根氏の次に宰相となったのが、竹下登氏だった。

「角さんに反旗を翻すかたちで、田中派を割って創政会を立ち上げた竹下さんですが、旗揚げのための極秘会合は政治生命を賭けたものだったといわれます。立ち上げメンバーの14人は、85年に築地の料亭『桂』に別々に集合します。個別行動にしたのは、激怒している角さんに動きを察知されないためでした」(前出の鈴木氏)

 その後、総理総裁の座を射止めた竹下氏の口癖が、「アイム・ソーリー、ボク・ソーリー(総理)」 また、こんな川柳も。「歌手1年 総理2年の使い捨て」 その答弁をして“言語明瞭、意味不明瞭”と揶揄された竹下元首相だったが、ギャグセンスは抜群だったようだ。リクルート疑獄が発覚し、竹下元首相が失脚してから9年後、創政会結成の盟友だった橋本龍太郎氏が首相に就任する

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