若い頃、涙を流して笑った名作ギャグ。今でも、あのフレーズを聞けば、青春の日々がよみがえってくる!
2016年初冬、最も熱いギャグは、ピコ太郎の「ペンパイナッポーアッポーペン(PPAP)」だろう。ガラの悪そうな金ピカの衣装でリズムネタを披露するその正体は、お笑い芸人・古坂大魔王だ。独特の雰囲気が漂う動画がネットで拡散された結果、日本はおろか、世界に羽ばたく大スターになった。
とはいえ、お笑い界にはこんな声も。「ピコ太郎はザ・ドリフターズの荒井注の、“ジス・イズ・ア・ペン!”を元ネタにしている説があるんです」(お笑い番組放送作家)
先人の遺産にオリジナルの創意工夫を加えた結果、爆笑ギャグが生まれたというのだ。そこで今回は、温故知新をキーワードに、今や生では拝めない伝説の爆笑王を大特集。昭和の伝説的ギャグとともに、読者諸兄も自身の青春時代を思い起こしていただきたい。
まずは、昭和の三大喜劇人と呼ばれたのが、エノケン、ロッパ、キンゴロー。体技の榎本健一、声帯模写の古川ロッパ、新作落語の柳家金語楼の3人は、戦前から戦後にかけて大人気を博したが、当時の演芸の中心は舞台だったため、今となってはわずかに残された映像などで、その全盛期の芸を推測するしかない。
戦後復興が進んだ昭和20年代にギャグの先陣を切ったのはトニー谷。怪しい英語を散りばめたキャラクターに大衆は釘づけとなった。「レディース・アンド・ジェントルマーン、アンド・おとっつぁん・おっかさん!」が持ちギャグ。「トニーをヒントに、赤塚不二夫は漫画『おそ松くん』のイヤミを生み出しました」(演芸プロデューサー)
言葉遣いの珍妙さが大ウケしたといえば伴淳三郎、山形訛りの「アジャーにして、パーでございます」を略した「アジャパー」が流行語となった。
戦後を代表する大物喜劇人といえば森繁久彌とフランキー堺。両人とも定番ギャグを持たなかったが、森繁の映画『社長シリーズ』で、森繁社長と名コンビを成したのが、課長役の三木のり平。「パァーッといきましょう」がおなじみだった。
この頃、寄席で誕生した「お笑いモンスター」が、1958年(昭和33年)に真打昇進した初代林家三平だ。小噺の合間に「どーもスミマセン」「もう大変なんすから」とギャグを挟んで爆笑を取り、受けなかったら“このネタのどこが面白いかと言いますと……”と笑いが起こるまでギャグをたたみかける。
「おそらく、三平兄(あに)さんは昭和が生んだ最大のお笑い芸人。兄さんが出ると客席が、いつも爆笑で揺れてました」(ベテラン噺家)
同時期に人気を博したのが三遊亭歌奴(現・円歌)。三平と同じく、古典落語にとらわれず、新作落語『授業中』での「山のアナアナ」で爆笑を誘った。