――そこで、大学卒業後はオーストラリアに留学という道を選んだんですね。

石浦 親父が監督を務める鳥取城北高相撲部では、以前からモンゴルからの留学生を受け入れていました。照ノ富士関や逸ノ城関、学生横綱のタイトルを獲って、今年大相撲に入門するトゥルボルト(日大4年)などがそうなんですが、モンゴル人を身近に見ていたこと、世界ジュニア選手権、世界選手権(タイ・チェンマイ)に出て、海外の雰囲気を経験していたので、日本を離れてみたいな……と。

 オーストラリアでは語学学校に通いながら、格闘技の道場で体を鍛えて、年齢やジャンルを超えた人たちと触れ合うことができました。その間、日本にいる両親とは連絡を取らなかったんですが、大相撲はずっとインターネットでチェックしていました。ネットで相撲を見ると、力士たちが輝いて見えるんですね。(平成24年の)名古屋場所で、山口が7戦全勝で新十両昇進を決めたときは、「なんでボクはここにいないんだろう」という複雑な思いに駆られて……。もう一度、相撲をやらなかったら後悔する。一度きりの人生だから、大相撲の世界に飛び込もう。そう決意したんです。

 決意してからは、早かったですね。入門するなら、以前から声をかけていただいていた、横綱・白鵬関が所属する宮城野部屋しかないと思っていました。親父に「宮城野部屋に入るから」とだけ伝えたら、電話の向こうで、ものすごく驚いているのが分かりました。もちろん、最初は反対されましたけどね(笑)。

 平成24年8月、4か月のオーストラリア留学から帰国した石浦は、父の反対を押し切って、力士として通用する体作りに励むこととなる。新弟子検査を受験できるのは、23歳未満という規定があるため、年齢制限ギリギリの12月までかけて体重を再び100キロ近くまで増加させ、宮城野部屋に入門したのは12月24日のことだった。

 25年初場所に初土俵を踏み、3月の春場所で序ノ口からスタートした石浦は、格の違いを見せつけて優勝。翌場所、序二段でも全勝優勝を果たして、9月の秋場所で幕下に昇進。順調な出世となった。一方、同じ部屋の山口は十両力士として成績を残し、同年夏場所で新入幕を果たすなど、石浦の数歩先を歩んでいた。

――27年は石浦関にとって、飛躍の年になりましたね。初場所、6勝を挙げて、翌春場所の新十両昇進を決めます。

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