■NHK紅白歌合戦で落選したが

 65年12月、ひばりの代表曲『柔』が第7回日本レコード大賞を受賞。名実ともに女王となるが、公会堂の使用禁止騒動が起こる。「その後、彼女の実弟が起こした不祥事などが原因で、73年の『NHK紅白歌合戦』で落選。大トリや司会を務めた、ひばりの紅白連続出場記録が16回でストップします」(テレビ局関係者)

 翌年に養子縁組した息子の加藤和也による著作『美空家の歳時記』では、紅白の裏話が明かされている。〈我が家の大晦日は必ず『紅白歌合戦』を見ていました。そこにはまったく恨みがましい雰囲気はありません。おふくろもばぁちゃんもみんな楽しんで歌を聴いています〉

 また、ひばりの意外な一面も明かされている。〈東京・原宿のキディランドで、おふくろは女子中学生や高校生に囲まれても、何のためらいもなく、キティちゃんなどのサンリオキャラクターグッズを手にしています。ベティちゃんの手鏡やくまのプーさんのヘアブラシをうれしそうに購入していたのをとてもよく覚えています〉

 63年12月8日、力道山は赤坂のナイトクラブで暴漢に刺され、それが原因で15日に死亡(享年39)。酒に酔ってのトラブルだった。力道山の興行を手がけていた田岡三代目は自伝で、こう悔やんでいる。〈プロレスの英雄も若くして死んだ。プロレスをここまで隆盛に導いたのは力道山の力といっても過言ではあるまい。酒さえ飲まなかったらと残念でならない〉

 81年8月22日の田岡三代目の葬儀で、ひばりは周囲の反対を押し切って芸能人を代表して弔辞を述べた。「少女時代から巡業に同行して、体を張って自分を守ってくれた田岡三代目への感謝の気持ちを、ずっと持ち続けていたんでしょう。世間の批判を覚悟しての弔辞です」(芸能プロ関係者)

 87年に持病が悪化したひばりは、88年に東京ドームの「不死鳥コンサート」で復活するが、「89年2月の入院時、医師が“今まで歌っていたことが奇跡だ”と話すほど、病状は悪化していた」(前同)

 同年6月24日に逝去(享年52)。東京・青葉台のひばり御殿の密葬に集まったファンは1万2000人。出棺時は『東京キッド』や『川の流れのように』の合唱と拍手で別れを惜しんだ。昭和、平成と時代は流れても、プロレスの父・力道山と昭和の歌姫・ひばりの偉業は、日本人の記憶に刻まれている。

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