■「あと何年かで俺は車椅子だ」

 正論が軽く扱われるプロレス界の中で、馬場は自身の原点に立ち返った。

 馬場の原点。それは野球であり、プロ野球。次のような言葉が残っている。

「グラウンドの中ではデッドボールを食らいそうになってカーッとなり、ケンカをするときもあるよ。でも、試合が終わったら“おまえ、今日、調子が良かったな”とか“いいヒット打ったな”と言い合うんですよ。それと同じ」

 闘いが終われば、勝者も敗者も互いに健闘を称え合う。遺恨を残さない、因縁も引きずらない、どこまでも明るさに満ちたスポーツとしてのプロレスを推し進めようとしたのである。

 その明るいプロレスは、90年代に入って大きな花を咲かせた。

「馬場さんが言ってましたよ。“社長になって初めてよかったと思った”って」

 74年から馬場の元でレフェリーを務めてきた和田京平は、そう証言する。

 ファンの支持を得た明るいプロレス。その軌跡については拙著『夜の虹を架ける』に詳しく記したが、団体の経営状態が大きく改善したことで馬場の表情も一変。明るく柔和になり、それに伴って周囲からは「馬場さん!」と敬称つきで呼ばれるようになった。

 98年には、還暦を迎えてもなおリングに上がり続ける楽しげな馬場に、いつしか人々は安らぎさえ感じるようになっていた。

 だが、馬場はその明るさの陰で、己の運命を冷静に見据えていたと和田は言う。

「“俺が引退したら、オマエはコーヒー屋をやれ。俺がそこに飲みに行くから”って。馬場さんは先が読める人だった。“あと何年かで俺は車椅子だよ”とも言ってたよね。“そのあとの面倒は京平、オマエが見ろ”と」

 結局、馬場は「世界の大巨人」のまま生涯を終えた。

 契約を重んじ、正論を貫き、明るさと安らぎを人々に与えつつ、自身の人生については客観視していた馬場。そんな不動の生き方が今、再評価されている。

 先の馬場展。会場に展示されていた等身大フィギュアを「でかいなあ」と見上げる人々の眼差しは、どこか大仏を眺める人々のそれと似ていた。(文中敬称略)

 現在発売中の『週刊大衆』2月25日号ではそのほか、プロ野球「史上最高の歴代名監督」ランキングなどスポーツ情報も数多く特集している。

あわせて読む:
・ジャイアント馬場は、人気海外映画のオファーを断っていた!? 「昭和のプロレスラー」雑学クイズ
・丸藤正道「プロレスの可能性は無限大だと思う」三沢から学んだ人間力
・天龍源一郎「引退後のことを話そう」“ミスタープロレス”独占インタビュー

  1. 1
  2. 2