■将来の夢はホテルマンだったが

 玉鷲一朗。1984年11月にモンゴル・ウランバートルで生まれたムンフオリギル少年の将来の夢は、ホテルマン。高校を卒業した後は、実際、ホテルの専門学校に通っていた。その頃、東大大学院に留学中だった姉を頼って日本に遊びに来た玉鷲は、相撲の街・両国へ。そこで偶然出会ったのが、自転車に乗っていた鶴竜(当時・幕下)だった。

「それまで相撲の経験はなかったし、相撲をやろうという気持ちはなかったんです。でも、実際に力士に会ったり、話を聞いたりしているうちに、“この体を生かせるかもしれない”と思ったんです。それで旭鷲山関の紹介で、片男波部屋に入門が決まりました」

 04年初場所で初土俵を踏んだ玉鷲は19歳。白鵬や鶴竜が15歳で入門していることを考えれば、かなり遅い入門といえる。実際、出世もトントン拍子とはいかず、3年が経過した。そして、07年秋場所、幕下優勝を果たし、翌九州場所では初めての幕下上位(2枚目)に進出。この場所、4勝3敗と勝ち越し、ワンチャンスで十両昇進を決める。

「(十両昇進までの)3年半は長かった……。相撲が強くならなかったこともそうだけど、言葉の壁も大きかったです。同じ部屋にモンゴル人はいませんから、最初は英語で会話したりもしたし、部屋の先輩たちが話をしているときとか、本当は日本語の意味が分かっていないのに、自分、空気を読み過ぎちゃうタイプなので(同調していると)、“おまえ、本当は日本語分かってるんじゃないのか?”なんて言われたり……(笑)。そんなこともつらかったから、モンゴル人同士でつるんでいると、今度は日本語が下手になっちゃって。試行錯誤の3年半でしたね」

 外国人力士の出世のスピードは、いかに早く日本語をマスターするかによるともいわれている。師匠や兄弟子が、よかれと思って送ったアドバイスを理解できずに誤解が生まれた結果、志半ばで角界を去るというケースも少なくない。玉鷲は3年半という時間をかけて、この壁を突き破ったのだった。

 08年初場所、23歳で新十両、秋場所で新入幕とステップアップした玉鷲だったが、その後はなかなか幕内に定着できず、幕内と十両を行ったり来たりの繰り返し。現状に満足してしまったわけではないが、モヤモヤした気持ちが続いて、腕にケガを負うという不運まで重なった。そして、11年初場所後に判明したさまざまな不祥事が発端となって、3月の春場所は開催中止。5月の夏場所は技能審査場所となるなど、角界も玉鷲も迷走し続けた。

 玉鷲がようやく幕内に定着したのは、6度目の入幕を果たした13年の名古屋場所以降。新入幕から5年の歳月が流れていた。

「幕内に上がったり、十両に下がったりを繰り返していた頃、師匠から言われて心に響いたのが“人に見せる相撲を取らないと”という言葉でした。NHKの大相撲中継で放送されるのは、幕内の取組からですからね」

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