■蒋介石総統夫人から夕食会への誘いを断り…

 ひばりを語るうえで、家族との関係を抜きにすることはできない。 特に、母親の加藤喜美枝とは“一卵性親子”ともいわれた。ひばりの最大の理解者で、演出家で、プロデューサーだった母だが、芸能界しか知らず、どこか浮世離れしていた。ひばりのマネージャーを長年務めた嘉山登一郎氏は、著書『美空ひばり秘話 俺のどうにか人生』(近代映画社)の中で、信じ難い逸話を披露している。1965年(昭和40年)に、台湾公演を行った際、蒋介石総統夫人(宋美齢)から、夕食会への誘いを託された人物がやって来た。ところが、事務所のマネージャーが不在で、蒋介石も宋美齢も知らない喜美枝は、なんと……、「ひばりに会いたかったら、そっちから来ればいい」と断ってしまったというのだ。「あのお母さんなら、十分にありえる話ですね(笑)」(芸能プロ関係者)

 戻ってきたマネージャーは、国家元首夫人からの誘いを、失礼な物言いで断ったことを知ると、「これはまずい!」と考え、翌朝6時の飛行機で緊急帰国するように取りなした。ちなみに、ひばりサイドの態度に総統夫人の側近たちは激怒した模様で、翌朝8時以降、ひばり一行を出国させないために、一時、空港を閉鎖する動きがあった――という。

 ひばりには2人の弟がいる。上の加藤益夫は「小野透」、下の武彦は「花房錦一」として芸能界入りしている。「加藤家には、“家族以外は信用しない”という家訓のようなものがあった。だから、弟があのようなことになっても、突き放さなかったんです」(前出の西川氏)

 ここでいう“弟”とは益夫のことだ。16歳で歌手デビューし、映画にも主演。ところが、歌も映画も不調で1962年(昭和37年)に引退すると、賭博幇助、拳銃不法所持、傷害、暴行など刑事事件を立て続けに起こす問題人物だった。「ところが、喜美枝さんとひばりさんは、1969年(昭和44年)に「かとう哲也」の名前で芸能界復帰を促し、ひばり公演にレギュラー出演させます」(同)

 しかし、益夫はその後、またも暴行容疑で逮捕。「それでも、ひばりさんは弟をかばい、自ら苦しい状況に追い込まれます」(同)

 全国の公会堂やホールから締め出しをくらい、マスコミにも叩かれ、NHK『紅白歌合戦』からも追放される。70年代はヒット曲も途切れ、つらい時代となった。前出の山本氏は、そんな時代のひばりと会っている。「当時、お住まいになっていた赤坂のマンションにお邪魔したり、勝さんを交えて食事をご一緒したことがありました」

 どんな様子だったのか?「どこか寂しそうでね。僕の肩のあたりに手を当てて“山本さんも大変なお仕事ね。哲也(益夫)と同じで突っ張ってやってこられたのね”とおっしゃって。僕のほうが年上なんですが、優しいお姉さんのような印象がありました」

 暗黒期といえる時期のひばりを救ったのが、益夫の長男である加藤和也氏(現・ひばりプロ社長)だ。彼女は、幼い甥を養子に迎え、溺愛したのである。「精神的な面で、和也さんの存在は本当に大きかった」(西川氏)

 ただ、心の支えはできたものの、アルコールの量は減らなかった。 さらにつらい出来事が続く。80年代になると、最愛の母が他界(81年)。さらに戦友的存在の江利チエミが45歳で急死(82年)。追い打ちをかけるように、弟の益夫(83年)と武彦(86年)が、ともに42歳の若さで死亡。女王の孤独は、ますます募っていった……。

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