■芝居もうまく、チャンバラも絶品

 ひばりが天才的だったのは、歌だけではない「芝居もうまく、チャンバラも絶品だった。その出演映画は165本。吉永小百合が次の新作で121本目ですから、ひばりは日本映画史に残る女優なんです」(前出の映画専門誌記者)

 東映専属になってからは時代劇がメインとなった。そこでは斬られ役の存在が不可欠。ひばりは、そうした面々を大切にした。「京都の太秦に“東映剣会”という殺陣の技術を極めた俳優の集団がいます。あるとき、ひばりさんは彼らのギャラが低いことを知り、東映に賃上げ要求をしたんです」(西川氏)

 剣会のメンバーは、そのことを恩に感じ、“お嬢を盛り立てよう”という機運が一層、高まったという。 60年代になると映画産業も斜陽化。ひばりの出演作も減った。そこで、母・喜美枝は、芝居と歌の二本立て興行を新たなフィールドに据える。「今、演歌歌手が行っている舞台公演のスタイルは、女性歌手ではひばりさんが元祖。男性では三波春夫さんの前例がありましたが、ひばりさんは芝居の割合が大きかった」(前同)

 ホームグラウンドである新宿コマ劇場でも、太秦と同様のことをしている。「劇場に“値上げした分は、観客動員でカバーします”と宣言し、バックダンサーのギャラを大幅アップさせています。実際、劇場には多くの観客が集まり、有言実行となりました」(同)

 若い頃は、このように快活だったが、晩年は病に苦しみ、露出も減った。一時は、“過去の人”の烙印を押されつつあった。だが、最後の最後に、鮮烈な印象を残す。長期休養後、1988年(昭和63年)4月に真新しい東京ドームで公演を成功させ、翌年(平成元年)1月に発売した事実上のラストシングル『川の流れのように』をヒットさせるのだ。「それと前後して、ディナーショーを行ったり、いくつものテレビ番組に出演。3月にはラジオの特番で“ひばりに引退はありません”と発言もしています」(前出の芸能プロ関係者)

 ところが、その直後に体調が急変し、同年6月24日に帰らぬ人となった……。歌謡界の女王は、昭和の終わりを見届け、ファンに別れを告げて去っていった。

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