■キャバレーでひどい話を聞かされて
――もう後には戻れなかったわけですね。1971年、21歳のときに『愛は死んでも』でデビューされました。
八代 そのとき、実家の母から電話で“亜紀の夢は本当だったんだ。あのとき叱らなければよかった。俺が悪かった”って父が泣いたっていう話を聞かされて。
――まさに浪曲の世界そのものですね。デビュー翌年にはオーディション番組『全日本歌謡選手権』(読売テレビ)に出場されました。
八代 デビューしてもヒットに恵まれずにいたんです。このままではダメ、私なりにケジメをつけようと思って応募したんですね。そこで、10週連続勝ち抜かなかったら“八代亜紀を捨てよう”“歌手を辞めよう”って。
――10週連続優勝し、見事にグランドチャンピオンになられて、翌年には『なみだ恋』をリリース。これが120万枚を突破。その後、79年に八代さんの代名詞とも言える『舟唄』をリリースされ、演歌歌手としての地位を不動のものに。一方で、画家としての活躍も目覚ましいです。
八代 父の影響で始めたんですけど、30年くらい前に箱根にアトリエを作って毎月3日間は、そこに籠って絵を描いています。
――フランスの国際公募展「ル・サロン」に出品され、98年から5年連続入選し、永久会員になられています。
八代 絵の先生から出品してみないか、と言われたんですけど、落ちたら恥ずかしいからってお断りしたんです。「国内じゃなくて海外のだよ。海外だったら落選しても誰にも分からないよ」って言われて、チャレンジしたら入選したんです。
――画家としても結果を残しているからすごいです。絵を描いているときは、どんな気持ちなんですか。
八代 童心に戻っていますね。「亜紀ちゃん」に戻っています(笑)。
――ハハハハ。94年には結婚もされて、幸せも手にされました。
八代 それまでは全然、独身でもいいと思っていたくらいだったの。
――でも、八代さんだったら、プロポーズしてきた男性が多かったのでは?
八代 ウフフ、ありましたよ。でも、私は結婚したいって気持ちはまったくなかったので、お断りしていたんですよ。以前は“男は悪い”って思っていたくらいなんです。キャバレーで歌っていた頃に、お姉さんたちからずいぶんとひどい話を聞かされて、「女を泣かせるなんて」って。