■地獄の伊東キャンプは語り草

 王が本塁打の世界記録に挑んでいたとき、長嶋も指揮官として戦っていた。79年に5位となった長嶋巨人が、浮上のため敢行したのが、語り草になった【地獄の伊東キャンプ】だった。「79年のオフ、11月29日から始まりました。“どのチームもやったことがない練習”を目指した長嶋監督は、期待の若手18人をいじめ抜いた。中でも、しごかれたのが松本匡史です」(OB)

 キャンプ初日、松本は長嶋監督から外野転向、左打ち転向を言い渡される。「無茶振りもいいところですよ(笑)。ただ、長嶋監督は朝6時から松本のトスバッティングにつきあい、守備練習では自らノック。松本は、“バットから指が離れなくなって、はがしてもらった”という壮絶な体験をしました」(同)

 伊東キャンプを経て確実にチームは底上げされ、翌年シーズンは3位に浮上した巨人。手応えを感じた長嶋が、「今年もやる」と意気込んだが、球団からはストップがかかった。「ミスターは“だったら、ポケットマネーでやる”と言いだして、堀江マネージャーに費用を調べさせていました。それくらい、やる気だったんです」(当時の球団関係者)

 長嶋が次に巨人の監督に返り咲いたのは、13年後の年だった。そのとき長嶋が見せた奇跡が、球史に名高い【メークドラマ】だ。巨人、中日とも69勝60敗と、まったくの同率で迎えた10月8日の試合。勝ったチームがペナント優勝というのは、実に四半世紀ぶりの珍事だった。大舞台に燃える長嶋は、「国民的行事」とファンを煽った。「巨人は7月16日の時点で、首位中日に11.5ゲームつけられていたが、ミスターは、“絶対に追いつける”とチームを鼓舞し続けました。最初は選手も、“バカな”とシラケムードだったんですが、連勝が続いたんで、その気になったんです。超ポジティブ思考のミスターが、チーム全体を暗示にかけて起こした奇跡だと言えますね」(前同)

 当日は警備員が増員され、1000人近くのファンが徹夜で並んだ。決戦の当日、ミスターと昼食をともにしたという関係者に話が聞けた。「11時頃、急に連絡があって、ホテルの中華料理店で昼食を取ることになりました。立教大時代の失敗談をおもしろおかしく話してくれましたが、試合の話はゼロでしたね」

 試合前は選手を前に、「今日は必ず勝つ」とひと言。長嶋は“オンとオフ”の切り替えも超一流だった。

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