■弱小ダイエーを常勝軍団に

 王も、監督として苦難と栄光のドラマを持つ。その象徴が、【巨人への離縁状と生卵事件】だろう。年9月29日、ペナント4試合を残しながら、巨人は王の監督任期満了に伴う退団を発表、王は面子を潰されてしまう。王がダイエーの監督に就任し、再びユニフォームに袖を通したのは、95年のことだった。このとき王は巨人関係者に、こう漏らしている。「ダイエーはパ・リーグだから、巨人と戦わないだろ。それに、福岡は東京から一番遠いからいいね……」

 事実上の“巨人への離縁状”である。しかし、監督を引き受けた当時のダイエーは “お荷物球団”。王の就任後も低迷が続く……。「君たちは……君たちは、悔しくないのか!」

 敗戦後のミーティングで、テーブルを叩きすぎて、王の拳には血がにじんだこともあったという。この頃、起きたのが“生卵事件”だ。年5月9日、日生球場96で行われた近鉄戦の帰りのバスに、怒ったファンが生卵を次々にぶつけたのだ。「さすがにあのときは、こんなことをされるために福岡に来たんじゃないと思ったよ。悔しかった……。でも、あの一件以来、意識が変わった。巨人時代と違って、ある程度負けを覚悟して戦えばいいんだと。それで選手への接し方も変えることができた」

 それまで王は、巨人出身者をコーチに招かなかったが、98年からV9の同僚である黒江修透氏をヘッドコーチに迎え入れる。「王さんは雲の上の人すぎて、選手の耳に考えが届かない部分があった。で、ズケズケ言う俺が呼ばれたんだ。王さんは、“黒江のいうことはオレの言葉だ”と言ってくれたんで、やりやすかったよ」(黒江氏)

 フロントも王を支え、有力選手を次々補強。役者がそろい、99年に日本一に輝く。その日、王が流したうれし涙には、万感の思いが込められていた。

 “弱小ダイエーを常勝軍団に変える”という最大の試練をクリアした王だが、長嶋にとっての最大の試練は脳梗塞だった。続いては、その【壮絶リハビリと北京五輪】の舞台裏を紹介したい。04年3月4日、脳梗塞で東京女子医大に緊急搬送された時点で、長嶋の意識はなかったという。退院後のリハビリは、医療関係者の間で語り継がれるほど、壮絶なものだった。「リハビリで快復し、北京五輪の監督をするという目標があったんです」(前出の球界関係者)

 脳梗塞に倒れたため、長嶋はアテネ五輪の監督を途中降板せざるをえなかった。無類の五輪好きとして知られる長嶋のこと、さぞかし無念だったはずだ。「星野仙一が北京五輪の監督に決まったあとも、“仙ちゃんだって、途中で降板するかもしれないから”と言って、監督を諦めていませんでしたからね」(前同)

 五輪への執念が、壮絶なリハビリを可能にしたのだ。

 最後に紹介する名勝負は、【00年のON対決】だ。巨人には生涯戻らない覚悟で飛び込んだ福岡の地で、苦節6年――ついに、巨人と日本シリーズを争う日が訪れる。しかも、相手は“永遠のライバル”長嶋だった。結果は4勝2敗で巨人に軍配が上がったが、「王は、巨人に、そしてミスターに勝ちたくてしかたなかった」(王をよく知る人物)という。

 そんな王の執念が実ったのが、19年の日本シリーズだ。原辰徳率いる巨人と、工藤公康率いるソフトバンクが日本一を争った。結果は、ソフトバンクが巨人を4タテする圧勝。巨人を討ち、念願果たした王だが、“巨人愛”は失っていなかった。その複雑な胸中が透けるのが、オフの巨人OB会での発言だ。「我々ホークスのほうは、リーグ優勝できなかった。僕としては、来年もう1回、ちゃんとリーグ優勝してジャイアンツと戦いたい」王なりのエールだろう。

 偉大なるON――両者の歩みは、プロ野球の歴史そのものである。

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