■監督、解説者として
野球選手として、サッカー選手として、一時代を築いた中畑氏と福田氏。そんな2人に引退後、違う人生が待っていた。89年にユニフォームを脱いだ中畑氏は、93年、第二次長嶋監督政権下でヘッドコーチに就任。また、2003年には、アテネ五輪「長嶋ジャパン」でもヘッドコーチを務めた。
中畑「俺は人生の節目に必ず長嶋さんという存在がある。俺にとって、“長嶋茂雄に出会えたこと”が、ここまで来られたすべてなんだ」
11年、横浜DeNAの監督就任を打診された際も、長嶋氏に真っ先に報告した。
中畑「長嶋さんは満面の笑顔で、“キヨシ、おまえの性格そのままに、明るく、楽しい指導者になりなさい”と言ってくれたんだ」
しかし、順調だったはずの第二の人生が、この年の暮れ、絶望の闇に陥る。最愛の妻・仁美さんが、子宮頸がんで帰らぬ人になってしまったのだ。
中畑「妻に先立たれる――これほど悲しいことはない。言葉にできない。酸素がないみたいに、呼吸が苦しいんだ。だけど、それでも乗り切るしかない。生きていくしかないんだ……」
中畑氏はチーム指揮に戻ると、筒香嘉智(現・レイズ)を球界一のスラッガーへと成長させるなど、手腕を発揮した。
中畑「俺は“仲間”に助けられた。今、コロナに愛する家族を奪われる人がいる。働き盛りなのに仕事激減で、絶望する人も増えてきている。でも、“人間、一人じゃないよ”と思う。苦しくても、誰かに相談するんだ。そうすれば、どこかにヒントがある。救いの手もある。それこそが“ワンチーム”の原点じゃないか」
福田氏は、02年シーズン終了後に引退を表明。解説者に転身した。
福田「引退後、どれだけ自分が狭い世界にいたのかを痛感しました。まさに“井の中の蛙”でした。メディアを通して、どんな言葉を使うのがふさわしいのか、まるで分からなかった」
そんな手探りでの挑戦には、選手時代の“成し遂げられなかった感”が生きた。
福田「高校選手権もW杯も出られず、J1でも優勝できなかった。その“不完全燃焼”感があったからこそ、満足することなく努力を続けられた現役時代でした。それが染みついているから、引退後も、何事も忍耐強く、努力を惜しまず、トライできたと思う。そのことには感謝しています」