■王獲得の極秘プロジェクト

 翌日、報知のデスクから巨人に、阪神スカウトの動きが報告された。早大進学だと諦めていた“金の卵”に、ライバル球団が肉薄していたことを知った巨人は仰天し、すぐさま、王獲得の極秘プロジェクトをスタートさせたのだ。その日、巨人では宇野庄治球団代表が福岡工の上野新投手の契約のため、九州に足を運んでいて不在だった。そのため、品川主計球団社長が対応し、「とにかく、まず僕が自分でご両親に会い、巨人の気持ちを伝えてこよう」と、報知のデスクを伴って押上に出かけた。品川球団社長が直々に出向いてきたので、王の両親は驚いた。王は不在だった。「うちのスカウトは、王くんは早大に進学すると考えていたんです。だから、決意を迷わせることはしたくないと諦めていたんですが、実は水原(茂)監督からは、“王くんを取ってくれ”と何度も頼まれていたんです」

 これまでの経緯を熱っぽく語る品川に、王の両親は耳を傾けた。王の母親の弟で、一緒に品川の応対に当たっていた川口二郎は感極まって、こう口を開いた。「僕は巨人ファンで、戦前、洲崎球場で沢村栄治投手を見たこともあります」

 実は、この王の叔父にあたる川口が、のちに巨人にとって“強い味方”となる。巨人が横槍を入れ始めたことは、ほどなく阪神の敏腕スカウト・佐川の耳にも入っていた。「王はオレが苦労して口説き続け、入団の言質も取ったのに、巨人がチャチャを入れてきたんです。元のレールに戻すため、ひとつ出張ってくれませんか」

 佐川は、阪神の戸沢一隆球団社長のもとを訪れ、こう言った。佐川と戸沢が東京の王の家を訪ねたのは、親族会議の2日前の29日のことだった。王の両親は、これまで足繁く通い詰めてくれた佐川に好感を抱いていた。戸沢は困惑する王の両親に向かって、こう言った。「スター選手ぞろいの巨人では活躍できるか分からない。その点、うちには高卒の新人を大成させるノウハウがある。条件面も大きくアップさせてもらいます。ぜひ、阪神に来てください」

 戸沢と佐川の猛烈な巻き返しに、王サイドは大きく揺らぎ始めていた。明けて30日、運命を決める親族会議の前日。報知のデスクは、王の店に顔を出した。いつものように母親の登美さんが応対してくれたが、デスクは何か釈然としないものを感じていた。態度がいつもと違うのだ。「押しかけると必ず食事を出してくれて世間話をするんですが、この日は食事は出してくれましたが、話をしようとしない。僕と目を合わせないんです。どこか、よそよそしかったですね」

 新聞記者の勘だろう。「こりゃ、何かあったな」 そう思い、早々に王の店をあとにすると、デスクは品川球団社長のもとに直行した。品川に話すと、「それは妙だな」ということになり、2人連れだって王の叔父の川口を訪問した。報知のデスクは以前、王からこう聞かされていた。「母は大事なことを決めるときには、必ず弟の川口さんに相談するんです。それから兄に相談して、最後に父親と話し合うんですよ」

 これを思い出したのだ。川口ならば、“異変”の原因が何だか知っているはずだ。川口は複雑な表情で、こう説明してくれた。「実は昨日、阪神の戸沢社長と佐川さんが見えて、条件のアップを提示していったんです。さらに、阪神のほうが活躍できると熱心に口説かれたようです……」

 すでにあたりは暗くなっていた。親族会議まではもう時間がない。焦る品川は、その場で川口に阪神の条件を上回る好条件を提示、翌日の親族会議で説明してほしいと懇願した。事ここに及んでは、川口にすべてを託すしかないと考えたのだ。

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