その後、猪木は日本プロレスへ復帰し、67年に馬場とBI砲を結成する。

「BI砲は兄の馬場、弟の猪木といった雰囲気で、競い合いながらも、息が合っていた。猪木の卍固めと馬場のコブラツイストの競演など、客席が大いに沸いたものです。しかし、猪木が実力をつけようとも、日プロ内の序列は馬場に次ぐ二番手でした。馬場との直接対決も団体が受け入れず、不満をためていた。結局、日プロの不正経理問題に端を発したゴタゴタを機に退団し、72年に新日本プロレスを旗揚げします」(ベテランのプロレス記者)

 一方の馬場も日本プロレスを退団し、日本テレビのバックアップを得て全日本プロレスを設立。以降、両者はそれぞれの団体を率いて、覇権を争うことになる。

「馬場さんにとって、アメリカのプロレスこそが頂点。歴代NWA世界ヘビー級王者など、豪華な外国人レスラーをズラリと並べました。一方、それができない猪木さんは、闘いを全面に押し出した情念のプロレスを展開。異種格闘技戦や日本人レスラー同士の死闘など、ファンを熱狂させました」(前出の山本氏)

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