■“振り子打法”と“ゴジラ”の台頭は新時代の到来

 その後、時代は昭和から平成に。とりわけ“振り子打法”のイチローと“ゴジラ”の異名がついた松井秀喜の台頭は、新時代の到来を強く印象づけた。「松井に関しては、長嶋監督がマンツーマンで指導した“1000日計画”が有名です。シーズン中も素振りをさせ、その音でスイングの良し悪しを教え、松井の体に染み込ませました。ミスターにそこまでの決断をさせた大きな要因が、松井の並外れた体の強さ。高卒時点で“駒田徳広並み”の判定だったことが決め手になったと、もっぱらです」(前出の巨人軍関係者)

 ゴジラの1学年上であるイチローは高卒3年目だった94年にブレイク。現役だった愛甲氏、西武のコーチだった伊原氏は、ともに同一リーグの一員として、その衝撃を目撃した。伊原氏が言う。「これまでも言われてきたことですが、試合前のフリー打撃が本当にとてつもなかった。30本打てば、半分は柵を越えてくる。当時も西武はまだ強かった時期ですが、彼が打撃練習に入ると、ウチの選手たちも大半がベンチに座って、もうクギづけでね(笑)。試合でも内野ゴロを安打にされるわ、前に出れば抜かれるわで、ちょっと打つ手がなかったです。唯一の弱点はインハイでしたが、そこにビシッと投げられる投手も、なかなかいなかったですしね」

 ちなみに、そのイチローがプロ入りに際して唯一出した希望の条件が、背番号「51」。これは敬愛した“孤高の天才”前田智徳が、最初につけた番号でもあった。かつてイチローに「天才?それは前田さんのこと」とまで言わしめたのが前田だ。「師匠のオチさんも、“日本のプロ野球で教科書にすべき打者は前田”と公言していますが、彼のフォームには余計なクセがなく、ムダがない。まさに理想的なんだよね。俺もコーチとして野球を教えるときは、左なら前田、右なら鈴木誠也をお手本にしろ、といつも言ってるしね」(愛甲氏)

 その打撃は、チームの先輩だった“鉄人”衣笠祥雄をして「ケガがなければ3000本は打っていた」とも評されたほど。同じプロでさえも、つい「たられば」で語りたくなる天賦の才が彼にはあった。

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