■義興も義宗もいずれも南朝の忠臣を貫いた!

 当時、新田勢の蠢動に悩んでいた鎌倉公方足利基氏(義詮の弟)の執事だった畠山国清(武蔵国守護)が、竹沢右京亮という武蔵の武士と姦計を巡らせた。

 そして、義興を右京亮の屋敷に招いて美女と酒で篭絡した隙に討ち取ろうとしたが、失敗に終わり、続いて武蔵国稲毛の領主・江戸長門を巻き込み、再び策謀。畠山が江戸から稲毛の領地を没収しようとし、怒った彼が右京亮を通じ、義興にこう提案した。

「故なく父祖代々の所領が没収されようとしているので、鎌倉へ馳せ参じ、畠山殿に一矢報いたい。そこで佐すけ殿(義興)を大将に頼もうと思います。まず忍んで鎌倉までお越しいただけないか。鎌倉には当家の一族三千騎があり、その勢をもって相模を席巻し、関東八ヶ国を治めて天下を覆しましょう」

 むろん、所領没収の話を含め、すべてが嘘。義興が話を信じたかは不明だが、彼ら一行は一〇月一〇日、鎌倉を目指して多摩川の矢口の渡しに現れ、右京亮の案内で船に乗り込んだところ、渡し守が事前に開けておいた船腹の穴の栓を抜いた。

 当然、船は徐々に沈み、義興は両岸から江戸勢が放った矢を受け、無念の内に自害。その後、江戸は恩賞に預かったものの、鎌倉からの帰途、矢口の渡しに達したときに義興の亡霊に襲われて狂い死にしたという。

 一方、それから九年後の正平二三年(1368)、足利政権は前年暮れに二代将軍義詮が没したことで、三代目の義満に代替わりした。

 義宗はこの機を逃さず、七月に上越国境付近で挙兵したものの、沼田辺りで関東管領・上杉憲顕の軍勢に敗れて討ち死にしたという。

 その場所は越後説(長岡市)などもあり、合戦の内容も詳細は不明で、義宗はこのときに死んでおらず、伊予まで逃れたという伝説も残っている。

 そのため、新田兄弟の評価は難しい反面、南朝の忠臣を貫き、二人が揃って伝説を残したことから、少なくとも、その死が惜しまれるだけの人物だったことは確かだろう。

跡部蛮(あとべ・ばん)1960年、大阪府生まれ。歴史作家、歴史研究家。佛教大学大学院博士後期課程修了。戦国時代を中心に日本史の幅広い時代をテーマに著述活動、講演活動を行う。主な著作に『信長は光秀に「本能寺で家康を討て!」と命じていた』『信長、秀吉、家康「捏造された歴史」』『明智光秀は二人いた!』(いずれも双葉社)などがある。

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