■アメリカでの“セメント試合”
さて、遺品の中には夫妻が交わした手紙とともに、1961年7月からの海外武者修行中に馬場が日本の力道山に宛てた「業務連絡」の手紙が束になって残されていた。
おそらくは1963年12月の力道山の死後、日本プロレスの社長室にあった手紙を馬場が引き取ったものと推察されるが、プロレスファンにとっては実に興味深い内容となっている。
〈一週間ほど前、私とエドワード・カーペンティアとの試合でセメントになってしまいあまり良い試合で有りませんでしたが……〉
これは1962年5月に投函された手紙の一部である。後年の馬場はセメントと称されるような「硬い試合」やケンカマッチをヨシとしなかったが、若かりし頃には修羅場をくぐり抜けていた。ここにもまた「知らなかったジャイアント馬場」がいた。
拙著によって、皆さんの脳裏に刻まれているジャイアント馬場という名のパズルが、完成に近づくことをお約束する。(文中敬称略)