■セパで大きく違った「審判」

「中日に移籍して一番びっくりしたのが、セ・リーグの審判が一切、ムダ口をきかなかったこと。俺らの頃のパ・リーグなんか、選手上がりの人も多かったから、技術は確かだけど、自己主張も激しくてさ。夏場に試合が長丁場になったりすると、試合中でも“いいかげん、はよ終われ。ビール飲ませろ”とか、普通に言ってきたからね(笑)」

 かつて野球中継といえば、圧倒的に巨人戦が中心で、パの試合は土・日の日中にたまに中継が入る程度。カメラに抜かれる心配が少ない分、選手や審判の間にも、セではありえないほどのおおらかさが漂った。

「だから、選手の立場からしても、セ・リーグ球団の主力選手は、どこか“テレビで見てたやつらが相手だ”って感じでさ。中日で初めて東京ドームの打席に立ったときなんて、ヘンに浮き足立っちゃって全然集中できなかったもんね。実際はファームでも対戦があったのに、“うわぁ、斎藤雅樹だよ”って」(前同)

 加えて、いかんともしがたい如実な格差が、年俸をはじめとした待遇面。それをまざまざと実感させられたのが、オフの恒例行事でもあった「12球団対抗」番組収録の現場だったという。

「運動会とかゴルフとか、あの頃はいろんな番組があったけど、だいたい出演料は一律で10万円と決まっていた。となると、巨人の主力は全然出てこなくなって、誰も知らないような選手を寄こすようになっちゃってさ。で、それじゃダメだってことで、選手会から事前に“要望選手”のリストが来るシステムに変わったの。現場でも、俺らと巨人の選手とじゃ、扱いが明らかに違ったしね」(同)

 他にもこんなことが……。ロッテ時代の同僚だった袴田英利が、地元後援会からサイン会を依頼されたときのことだ。

「100万円のギャラで、ロッテから袴田さんと俺と西村徳文の3人。それと法大時代に袴田さんがバッテリーを組んだ江川卓さんを呼ぼうって話になって。50万を3人で分けて、残りを江川さんに、ってことになったんだけど、いざ江川さんに連絡したら“そんな端金なら、家で寝てたほうがマシ”って断られた」(同)

 そんなセ・パ格差の“潮目”が変わったのが、冒頭にも挙げた04年の「球界再編」だ。この年、パ・リーグが長年抱えていた赤字問題が一気に爆発することになった。

「まず、経営難の近鉄がオリックスと合併。1球団消失に伴い、その後、当時、巨人のオーナーだったナベツネ(渡邉恒雄)さんを中心に、1リーグ制が模索されることになります。つまり、赤字続きのパを、セがまとめて面倒見ようというわけです」(ベテラン記者)

 しかし、選手会やファンの強い反発を受け、計画は頓挫。楽天が新規参入し、セ・パ12球団が維持されることとなった。05年からは、“巨人戦が減るから”とセ各球団が拒否し続けていた「交流戦」もスタートする。

「07年に、新会社『パ・リーグ・マーケティング(PLM)』を立ち上げたパ・リーグは6球団で足並みをそろえて、独自の改革に打って出た。交流戦も当初“巨人戦目当て”でしたが、今はもう、そういう段階ではなくなっています」(前同)

 98年の松坂大輔を皮切りに、田中将大ダルビッシュ有大谷翔平といった超高校級の“怪物”たちが、続々とパ・リーグ入りする強運もあり、セとパの格差は年々、縮小していった。

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