永遠のプロレスラー「三沢光晴」友人が語る「最強エルボー」伝説の画像
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 どれだけ月日が流れようとも、忘れられない“緑色の勇姿”。リングに人生を懸けて闘った足跡がここに!

 2009年6月13日は、プロレスファンにとって忘れることのできない日だ。プロレスリング・ノアの広島大会。そのメインイベントで悲劇は起きた。

「トップレスラーの三沢光晴さんが、バックドロップで投げられた直後、リング上で動けなくなりました。異変を感じて試合を止めたレフェリーに、三沢さんは“ダメだ。動けない”と答えた後、意識を失い、帰らぬ人となりました。享年46という若さでした」(スポーツ紙プロレス担当記者)

 多くのファンは、プロレスラー・三沢光晴がリングにいない喪失感を、長らく埋めることができなかった。

 あれから12年。三沢さんが残した偉大な足跡は、今なお色褪せることはない。

「高校時代にアマレスで国体優勝を果たすなど活躍し、1981年にジャイアント馬場率いる全日本プロレスに入門しました。若手時代からセンス抜群で、馬場さんも目を細める“秘蔵っ子”でした」(前同)

 84年から2代目タイガーマスクとして活躍していた三沢さんが自らマスクを脱いだのが、中心選手の天龍源一郎の離脱で、団体が揺れていた90年5月の東京体育館大会でのこと。ここから、必殺技のエルボーを武器に、団体を引っ張るエースへと急成長する。

 同年6月、“怪物”ジャンボ鶴田を初めて破ると、8月に川田利明や小橋健太(現・建太)たちと「超世代軍」を結成。その後、「四天王プロレス」と称される、肉体の限界に挑戦するかのような激しいファイトを繰り広げ、多くのファンを熱狂させた。

 元『週刊プロレス』全日本プロレス担当記者の市瀬英俊氏は、こう語る。

「三沢さんはプロレスラー的な“俺が俺が”という主張をしない選手でした。リングの闘いがすべてで、無駄なアピールをせず、試合の激しい攻防だけで観客を魅了する。そんな“言葉を必要としないプロレス”でトップを取ったレスラーが、三沢さんだったと思います」

 市瀬氏は、97年1月、三沢さんが当時の三冠王者、小橋健太に挑んだ試合が忘れられないという。

「今も鮮明に覚えていますが、フィニッシュのランニング・エルボーを放つ直前、中腰状態の三沢さんがリング上で声にならない声で吠えたんです。ふだん、客席にアピールをしないレスラーでしたから、余計に驚いた。あの試合は“凄いもの”としか形容できない激闘でした。極限の中で出た、自然な感情の発露だったように思います」(前同)

 この試合は、その後のプロレス史を変えたという。

「それまでは、遺恨やジェラシーなど、ドロドロした感情が闘いのベースでした。でも、三沢さんと小橋さんは志を同じくする同門同士。いがみ合っていなくても、あれだけ激しく、そして観客の心を揺り動かす試合ができると証明しました。今では、こうした遺恨抜きの試合は当たり前になりましたが、原型は、あの一戦にあったと思います」(同)

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