■プロレスリング・ノアで“三沢改革”
「馬場夫人の元子さんとのたび重なる衝突が、一つの背景としてありました。三沢さんがファンのために何か試みようとしても、馬場さんが作った伝統を重視する元子さんは聞く耳を持たなかった。結局、25人以上のレスラーやスタッフが追随し、ノアに移りました」(前出のプロレス記者)
同年8月5日のノア旗揚げ戦では、レーザー光線やオーロラビジョン、花道の設置など、華やかな演出が目を引いた。それは全日本社長時代にできなかった“三沢改革”の一端だった。
「一方で、三沢さんは選手のために、巡業後のオフの日を増やしたり、引退後の仕事先を作ろうとしていた。また、選手や社員へのインフルエンザの予防接種や、定期健康診断を義務づけました。当時のプロレス団体としては画期的なこと。06年に小橋さんのがんが発見されたのも、この健康診断のおかげでした」(前同)
04年と05 年に東京ドームに進出。超満員の観衆を集め、ノアは「業界の盟主」といわれるまでになる。
「ただ、旗揚げから4年目くらいから、三沢さんのツラそう表情が目につくようになりました。社長兼レスラーですから、休む暇もほとんどなかったはず。猪木さんでいう新間寿さんのようなキレ者の参謀がいれば、その後を含め、心労を溜め込まずにすんだのかもしれませんが……」(徳光氏)
長きにわたる激闘の代償として、肉体は悲鳴を上げていた。特に首の状態は悪く、上を向くことも、後ろを振り返ることも、ままならなかったという。それでも、団体の長として、リングの内外で走り続けた。
「三沢さんは、いつも“信念を持たずに自由を得ることはできない”と語っていました。あの日から、13年になる今も、僕は、その言葉を大切にしています。自分が生きていくうえで、迷ったときは“三沢さんだったら、どうしているだろう”と考えるんです」(前同)
46年間の人生を全力で駆け抜けた、三沢光晴の生きざま。令和の時代となっても、語り継いでいきたい。