自身の属するカテゴリーの代表的な特徴とはまた、その種族をイメージづけるステレオタイプでもある。吸血鬼は○○が好きである/苦手であるといったイメージと自身の性質とが乖離していることを自覚しつつ、若干無理をしつつも体面としての吸血鬼らしさを守ろうとする。それは旧式の慣習から逃れられない姿のようでもあるが、単に彼女の意に反して縛りつけるだけのものではない。彼女のルーツが、世間の人々から「なかったこと」にされるとき、吸血鬼としての彼女の矜持がささやかにあらわになる。

 吸血鬼という、伝承あるいは創作における定番的な存在だからこそ、この作品はあくまでユーモアを基調にした軽やかなタッチの物語として描くことができる。また、吸血鬼のよくあるイメージと主人公とのギャップが生む、おかしみに話を留めておける本作のバランスも、個人PVのサイズ感だからこそできることだろう。とはいえ、この作品でユーモアとして提示される視点は、己の社会における属性と一個人としてのアイデンティティをめぐる、より普遍的な問題設定をも導き出すポテンシャルを秘めている。

“人間ならざるもの”が描かれるとき、ではその存在が人間ではなく一体何者であるのか、必ずしも明らかであるわけではない。「吸血鬼 史緒里」と同じくシングル『シンクロニシティ』に収録された佐藤楓の個人PV「わたしのわたし」で演じられるのは、同居する人間の感情に寄り添いつつも、その存在の正体が明らかではない何かである。

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