■選手でも監督でも“規格外”

 長嶋のスケールの大きさは、現役を引退し、監督となっても健在だった。就任1年目の1975年、球団創設以来初の最下位という屈辱を味わいながら、翌年にはリーグ優勝に導いた。

「就任当時の巨人は、明らかな下り坂。でも張本勲を獲得し、王貞治の打棒を蘇らせ、高田繁のコンバートも成功させた。V9の抜け殻のようなチームを立て直した手腕は見事ですよ」(元巨人担当記者)

 93年からの第二次政権時代にも、劇的な優勝を成し遂げている。96年、最大11.5ゲーム差を逆転した「メークドラマ」だ。

「『メークドラマ』は、この年の新語・流行語大賞の年間大賞にも選出。94年の“10・8決戦”を『国民的行事』と表現したのもそうですが、長嶋さんの生み出すフレーズは本当にキャッチー。ワードセンスも抜群ですよ」(広告代理店関係者)

 監督としての長嶋は、多くの名選手も育て上げた。92年のドラフト、4球団競合の末、自らクジで引き当てた松井秀喜も、その一人。

「“4番1000日計画”を打ち出し、毎試合後、自宅やホテルで、マンツーマンで素振りの特訓。結果、超一流のスラッガーへと導いたのは、もはや伝説ですね」(スポーツ紙記者)

 松井のメジャー移籍後も師弟関係は続き、電話で素振りの音を聞いて、スイングをチェックしたこともあったという。

「もともとミスターは甲子園マニアと言えるほど、高校野球をよくチェックしていて、下手なスカウトよりも選手をよく知っている。そんなミスターが惚れ込んだのが、反対を押し切って1位指名した松井であり、篠塚(和典)だったわけです」(前出の元担当記者)

 監督として積み上げた通算勝利数は、巨人では歴代3位となる1034勝。

「日本のプロ野球史上でも1000勝以上した監督は13人しかいない。ミスターの采配にはさまざまな評価がありますが、実は十分、“名監督”と言えるだけの実績があるんです」(前同)

 2001年に監督を勇退。04年に脳梗塞を患うが、不屈のリハビリで復活。13年には、愛弟子・松井とともに国民栄誉賞を受賞した。

 そして今年。東京五輪の開会式に、85歳となった長嶋氏の姿があった。長嶋、王、松井の国民栄誉賞トリオで聖火ランナーを務めたのだ。

 この日も、長嶋氏らしい伝説が生まれていた。

「開会式でミスターの出番は23時台。でも、なんと15時には国立競技場入りするように指示されていたといいます。18年に胆石を患い、長期入院を余儀なくされたミスターですから、半日もの待機時間は大きな負担となったはずなんです」(球界関係者)

 だが、長嶋氏は、周囲に疲れを一切、見せなかった。

「体調面を気遣って、関係者は車椅子での聖火リレーを提案したそうです。しかしミスターは、これを拒否。ファンのため、自分の足で国立競技場を歩くことを熱望したんです」(前同)

 天才はいつまでも、我々を魅了し続ける。

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