■野村克也も“川上流”を踏襲

 残した名言の多さでは他の追随を許さない野村克也も、前出の江本氏によれば「実は監督としての川上哲治を信奉していた」。

 直接的な指導を、あまり選手にしなかったのも、“川上流”を踏襲したからだという。

「私の南海時代はノムさんもまだ現役。兼任監督の頃は、ミーティングも野球理論ばかりで、むしろ“言葉で野球はできんぞ”ぐらいの勢いだったんです。中国の儒者の言葉や故事からの引用を多用するようになったのは、監督専任になってから。監督としての立場に重みを持たせる狙いもあったんでしょう。当初は“ネタ帳”を常に携帯していましたからね(笑)」(前同)

〈結局、男の精神の糧なんてものは、その男が何に対して美を見出すかの問題や。わしは野球人としてのわしの美学を、常に勝つことに置いてきた〉(江夏豊

 そんな初期の“野村の教え”に最も感化された選手の一人が、江夏豊だ。マウンドでも私生活でも孤高を貫くその姿勢は、今なお多くの人を魅了してやまない。

「村山実さんを筆頭に、監督にまでなるような阪神のOBは代々、天才肌の人ばかり。お世辞にもボキャブラリーが豊富とは言えないから、ノムさんのようなタイプは江夏には新鮮だったんじゃないかな」(同)

 江夏のトレード相手でもあった江本氏は、そう推察したうえで、つけ加えた。

「ただ、当時の選手の大多数は、もっと現実的。江夏のように“生きざま”にまで美学を持っているような選手は、ほとんどいなかった。かく言う私も考えていたのは、試合に勝つ、メシを食う、遊ぶの3つだけ。“心頭滅却すれば〜”云う ん々ぬ んなんて講釈をぶたれても、暑いときは暑いからね(笑)」

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