大谷翔平
※画像は大谷翔平の公式インスタグラム『@shoheiohtani』より

 高々と舞い上がり、カクテル光線に照らされて、どこまでも飛んでいく。野球の華であるホームランを調査!

 去る5月11日。多くの逸話を残した伝説の野球人、“怪童”中西太氏が90歳で亡くなった。

「中西さんは、選手でも指導者でも、誰もが超一流と認める稀有な存在。“飛ばし屋”で鳴らした現役時代と同様、監督やコーチで8球団を渡り歩いた後半生でも、阪神の掛布雅之や岡田彰布、ヤクルトの岩村明憲ら多くのスラッガーを育て上げました」(球界関係者)

 今回は、そんな中西氏の功績をたたえるべく、新旧スラッガーたちの“飛ばし屋伝説”を徹底調査した。

■高卒2年目の20歳で!

 中西氏の球歴の中で、最長距離のホームランは、1953年8月29日の大映戦で放たれた。

 あまりに強烈なスイングから、何人もの捕手が「ファウルチップが焦げ臭かった」と証言した、“野武士軍団”西鉄時代の中西が放った一発だ。

「投げた林義一投手が“捕れるかと思ってジャンプした”と語る低い弾道の打球は、平和台球場の外野スタンドを一瞬で超えて、50メートルほど後方の福岡城址の天守台近くまで届いたとされる。むろん、正確な記録はありませんが、それが確かなら、推定飛距離は190メートルの“最長不倒”です」(スポーツジャーナリスト)

 しかもこの年、中西は高卒2年目の20歳。まさに“怪童”だ。そして、この弾丸ライナーは、当時の野球の真髄が詰まっている。

「昭和40年代から50年代にかけて、巨人などで活躍した青田昇さんによると“戦前の野球では、フライを打つことは厳禁”とのことでした。当時のボールは粗悪で飛ばず、フライを上げてしまえば捕球されてしまうからだと」(前同)

 青田氏は自伝『ジャジャ馬一代』(1998年/ザ・マサダ刊)で、こう記している。

〈ゴロやライナーを打って、野手の間を抜くのがいいバッティングとされた。川上さんの“弾丸ライナー”が理想である。ホームランはその延長線上に、たまたま出る産物にすぎない。〉

 “たまたま”にしては、すさまじい打球。中西の規格外の力がよく分かる。ちなみに、本人はその豪快な打棒とは裏腹に繊細な神経の持ち主で、西鉄、日本ハム、阪神で監督を歴任した他、ヤクルト、ロッテでも代行を務めたが、「優しすぎるゆえに監督には向かなかった」(前出の関係者)という。

 オリックス、ヤクルトで指導を仰いだ和製大砲“デカ”こと高橋智氏も言う。

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