■東京ドームの引退試合で有終の美
95年10月8日、4番サードで先発出場した東京ドームでの引退試合では、自身のアーチで有終の美を飾っている。
「引退セレモニーでの“私の夢には続きがあります”はよく知られているところですが、原さんの古巣復帰は、実は藤田(元司)さんの推薦によるもの。入閣に3年かかったのは、長嶋さんとの間に遺恨があったからだとか」(前同)
その発端となったのは、引退の前年、94年9月7日の横浜戦。長嶋監督が4番の原に代えて、息子を送った“代打・一茂事件”だ。
「ひどくプライドを傷つけられた原さんは、長く根に持っていたそう。今でこそ、この一件にも笑って受け答えをするが、当時の怒りは相当なものだった。もちろん長嶋さんも、彼を“刺激”すると分かったうえで、あえて引導を渡したのかもしれません」(前出のデスク)
■長嶋茂雄から帝王学
99年、そうした因縁を乗り越え、原はコーチとして第2次長嶋政権に合流。翌年には1軍ヘッドコーチに引き上げられ、ミスターから直接、帝王学を学んだ。
「長嶋さんも原さんを快く受け入れた。のちに原さんは“あの方(長嶋監督)の発想は想像を絶するものがあり、ときには戦国武将の心構えから作戦まで幅広い。話が弾んで、ドームが閉まる深夜0時になることもしばしば。本当に勉強になった”と、心から感謝していましたから」(前同)
指揮官と信頼関係を築き上げた原は、長嶋監督が勇退した01年オフ、満を持して監督に指名される。
■渡邉恒雄オーナーと衝突
「就任1年目でのリーグ優勝に加え、西武を相手に成し遂げた4連勝での日本シリーズ制覇は、球団史上初の快挙でもありました。ただ、この頃は原さんも40代前半と血気盛ん。3位に終わった03年オフ、当時の渡邉恒雄オーナーから“コーチ陣を刷新しろ”と要求されて衝突。それが、かの有名な“読売グループ内の人事異動”発言につながるわけです」(同)
抗議の辞任をオーナーに“人事異動”のひと言で斬り捨てられた原の怒りは、相当なものだったという。
「当時の噂では、原監督は辞表を書いて辞めた唯一の監督だったそうです」(同)