■読売グループ内で確固たる地位を築き、大胆な采配
だが、この失敗により“大人の対応”を覚えたことで、2年後から黄金時代が生まれる。15年に退任するまでの10年間で3連覇を含むリーグ優勝6回、日本一2回という抜群の成績を残し、読売グループ内で確固たる地位を築き上げた。
第2次政権中の07年から4シーズンにわたってヘッドコーチを務めた伊原春樹氏は、「当時からモノの見方は、しっかりしていた」と言って、こう振り返る。
「一番印象に残っているのは、やはり08年の開幕戦。高卒2年目の坂本勇人(35)を練習でも守ったことのないセカンドで使ったときだろうね。結果的に、その試合途中で二岡(智宏)がケガをして、勇人が、その後もショートに定着することになるわけだけど、あんな決断は、ちょっと私には真似できない」(前同)
横で見る大胆な原采配には、「大したものだ」と素直に思わされたという。
「どこか長嶋さんの“勘ピュータ”を思わせるところもあって、07年の高橋由伸の一番起用なんかも、固定観念のある私には考えつかない策だったね」(同)
遠征に行けば、3連戦のうち、どこか一晩はコーチ陣を食事会に誘うなど、面倒見の良さは人一倍。
その一方で、こと試合の采配となると、プライドの高さも随所で顔を覗かせた。
「まだ私がサードコーチャーをやっていたときのある試合で、私の想定とは違う選手が代走に出てきたことがあったんだよ。たまらず、私が“今は彼じゃない”とベンチにジェスチャーを送ったら、試合後に“伊原さん、あれは、どういう意味ですか? 監督は僕ですからね”とピシャリと釘を刺されてさ。私自身も出しゃばるのと諫言するのは違うよな、と学んだよ(笑)」(同)
■コーチ陣に自分より年上を置かなくなる
ただ、伊原氏の退任以降、「自分より年上を入れるのは嫌だ」と漏らすようになったという話も聞かれた。
「名将の名をほしいままにする中で、原監督の意向により、FAやドラフトの補強に大金が投じられた。グループ内で原さんの力が強まり、誰も進言できなくなった結果が、15年の任期途中の“解任劇”を生みました」(読売グループ関係者)
その傾向は“全権監督”として再登板した19年からの「第3次政権でも続いていた」(前同)という。
「リーグ優勝9回、日本一にも3回なって、WBCでも世界一と、これほどの実績があるわけだから、コーチ陣に“顔色を窺うな”と言うほうが、どだい無理な相談でしょう」
前出の角氏はそう前置きをしつつ、指摘する。
「個人的には、伊原さんがいた頃のように野球をよく知る年長者をヘッドに置くなりして、強くなる一方の“我”をあえて薄める作業をしてもよかったのかな、とも思います。とはいえ、結果はともかく勝負に徹しながら、若手を積極的に起用するなんてのも、彼が監督だったからできたこと。これで新監督の阿部慎之助が優勝でもしようものなら、“原の遺産”と、また評価も上がるでしょう」(前同)