血戦その④「キスカ島守備隊」撤退作戦
米軍の目を欺いた"忍法霧遁の術"戦死者ゼロ「アリューシャンの奇跡」
1942年6月にアッツ、キスカを占領し、西アリューシャンにおける橋頭堡(拠点)として守備隊を置いていた日本軍だが、43年5月、米軍はアッツ島に1万余名の陸戦隊を送り込んだ。
アッツ守備隊は最後まで頑強に抵抗したが、多勢に無勢で玉砕。米軍は今度は隣のキスカへの上陸を計画した。当時の日本軍には、同戦域で米軍の猛攻を真正面から阻止する戦力は残っていなかったため、大本営(作戦指導部)は、守備隊を撤退させる策を講じた。
秘匿作戦名「ケ号作戦」。"ケ"は乾坤一擲を意味する。当初、潜水艦を使った撤退作戦を立案したが、結局、駆逐艦隊による撤収作戦に落ち着いた。
作戦は極秘裏に行われなければならず、そのためには「①同地域に特有の濃霧を利用する(=濃霧だと敵航空機が展開できない)②新鋭のレーダー装置を搭載した艦が作戦に参加(=レーダーを用いる米艦隊に備えるため)」の2つの要件を満たす必要があった。②は、新鋭高速駆逐艦「島風」の作戦投入がかなったためクリアされ、あとは天候次第となった。決行日は43年7月12日とされ、撤収部隊が出撃したが、天候が濃霧とならず4度突入に失敗。やむなく根拠地の幌筵島(千島列島北東部の島)に引き返した。
撤退部隊の司令官だった木村昌福少将は、軍上層部から腰抜けと罵られたが、木村には「濃霧なくして作戦成功なし」の固い信念があった。
「罵倒されようとも、悪天候の利用を頑として譲らなかった木村少将の采配があったからこそ、奇跡は実現した」(古是氏)
作戦再開を期す木村に朗報が舞い込む。幌筵の気象台が、7月25日以降は、キスカ周辺は濃霧におおわれるというのだ。撤退部隊はすぐさま出撃した。29日にキスカ湾への突入に成功し、見事、5千名を超える守備隊全員を撤退させることに成功した。
島が"もぬけの殻"だとは知らない米軍は8月15日、艦砲射撃後に、3万4千の兵力で同島に上陸。あげくに同士討ちを演じ、100名の犠牲者を出している。霧に隠れた「霧遁の術」史上類を見ない撤退作戦は、現場指揮官の信念が生み出したといえる。