血戦その⑤対B-29「本土防空戦」
日本を焦土に変えた"超空の要塞"に空対空特攻を敢行した「震天制空隊」


太平洋戦争末期、日本本土は米軍の最新鋭戦略爆撃機B-29により、連日、猛烈な空襲に見舞われた。

全国各地の主要都市、軍需工場が焼き払われたどころか、戦時国際法を完全に無視した米軍の焼夷弾攻撃により、何十万人という民間人の命が奪われた。

1945年3月10日の東京大空襲では、344機ものB-29が飛来。一夜にして約10万人の民間人の命が奪われた(これは、3か月間続いた沖縄戦における住民の戦没者数と同等)。

大量の爆弾や焼夷弾を搭載し、高射砲も届かない1万メートルという高高度を飛んだ"超空の要塞"B-29。日本軍は、この米軍機になすすべがなかったのか。

否!日本の本土防空隊はあらん限りの死力を尽くし、B-29に一矢報いていたのだ。

44年6月、北九州の八幡製鉄所に対し爆撃を試みたB-29の編隊を迎え撃ったのが、戦闘機「屠龍」を擁する陸軍第19飛行団・飛行第4戦隊だった。この戦闘で第4戦隊の「屠龍」は、B-29を7機撃墜、4機撃破という大戦果を挙げた。損害は1機被弾という軽微なものだった。

高高度での空戦では、空気が薄いため操縦桿が思うように動かない。そのため、パイロットには高い技量が求められた。第4戦隊の秘密兵器が、戦車砲と同じ37ミリ砲。重厚かつバカでかいB-29を撃墜するには、通常の機関砲では効果がなかったのだ。

さらに、「斜め銃(=操縦席の後部に取り付けられた上方30度の機関砲)」も搭載されており、これでB-29の死角とされる後下方から狙い撃つことができた。


隊員の勇気が不可能を可能に

信じられないような方法で"地獄の使者"B-29を撃墜したツワモノもいる。

首都圏を防衛する陸軍第10飛行師団隷下の飛行隊による「空対空特攻」が、それだ。空対空特攻とは、文字どおりB-29に空中で"体当たり"をして撃墜するということである。その名も「震天制空隊」。とりわけ、飛行第244戦隊は有名だ。調布飛行場に所在した同隊は、44年12月3日の戦闘で、四宮徹中尉、板垣政雄伍長、中野松美伍長が三式戦闘機「飛燕」で体当たりを敢行。

しかも全員が生還しているというから驚きだ。

中野伍長などは、敵機の後方下面から自機のプロペラで敵機の水平尾翼を破壊し、いきおい敵機の上方に出た中野伍長機は、B-29におおいかぶさるように馬乗りになり、胴体をプロペラで切り刻んで撃墜したという。すさまじき闘魂だ。

「この特攻作戦は生還を前提としたものだった。B-29の飛行する高度1万メートルから脱出するために機外に出るということは、気温差や低酸素など、障害がたくさんある。しかし、当時の日本軍は、防寒服、酸素マスク、パラシュートという装備で、それを実行した。この勇気こそが、不可能を可能にした原動力だった」(神浦氏)

日本軍は通算500機に迫るB-29を撃墜し、3千機近くに損傷を与えている。

どんなに劣勢に陥ろうとも、敵機を撃墜せんと命を燃やした先人たちの不屈の闘魂を忘れてはならない。

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