生徒たちと一緒にアルバイトに奔走

大学卒業後、沖縄に戻った栽は、那覇の小禄(おろく)高校に赴任。半世紀に及ぶ高校野球の指導者生活が始まる。
「当時は日米親善の意味合いで、米軍の輸送部隊がバックネットを作ってくれました。那覇港で組み立て、それをクレーン車で学校に運び、グラウンドに備えつけてくれたんです。そこから、私の高校野球がスタートしました」

新任の指導者とあって、キャプテンが栽に迫った。
「インコース打ちのお手本を見せてもらえませんか」
栽は、ひるんだらナメられると思い、必死にバットを振った。幸い、腕をたたんで振るインコース打ちは得意中の得意。外野の向こうには、青々とした水を湛えた漫湖が広がっていた。
「たまたまですが、湖に3本もホームランを叩き込んだんです。あれで、選手たちがひれ伏したんですよ」

折しも、東京オリンピックが開かれた年だった。
「私も生徒たちも、『善太郎組』とか『大城組』と書かれたヘルメットを被り、建築現場のアルバイトをしました。私のポリシーは、父母からお金をもらわないというものでした」

アイデアマンの栽は、基地が約50%を占める西海岸の読谷村へ出かけ、バッティングケージに使えそうな網を譲ってもらう。硬球が抜けないことを確認し、防球ネットを作った。
「トレーニング器具も、手作り。2つのバケツにセメントを入れてパイプで繋いだものが、バーベルになりました」

古新聞でボールを作り、室内バッティングをしたのも、栽が最初だった。紙のボールは引きつけて打たないと飛ばないため、変化球打ちの練習になった。進取の気性が沖縄の県民性だとすれば、栽は典型的な沖縄人であった。
「小禄時代、勝てずに悩んでいるとき、建築関係の本を読みました。そこに、地震に強い建物を造るには、硬いものの間に軟らかいものを挟めばいいと書いてあり、女子マネジャーを考えついたんです。高校野球で女子をマネジャーにしたのは、私が最初ですよ」

70年夏、南九州大会決勝まで駒を進めたが、都城(宮崎)に1対3で惜敗。あと一歩のところで、甲子園出場を逃した。

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