信頼関係を築いて大躍進するも……

栽野球は豊見城高校に赴任してから花開く。
「広島商、中京商、松山商の野球はなんだろうと考えると、監督と選手の信頼関係でした。豊見城に移り、勝てるようになったのは、選手が私を信頼してくれたからです」

栽の甲子園初陣は、75年春のセンバツ。情にもろい栽は、年齢制限で試合に出場できなくなった亀谷興勝投手を監督に抜擢。自らは部長登録をし、試合に臨んだ。
赤嶺賢勇(後に巨人)を擁した豊見城は、準々決勝で優勝候補の東海大相模と対戦。1対0とリードした9回裏、どんでん返しが待っていた。3番・原辰徳(三塁手。現・巨人監督)
は三振に仕留めたが、後続に連続ヒットを浴び、同点。なおも一、二塁から、7番・山口宏(捕手)が打ち上げた一塁後方のフライを、豊見城の一塁手が落球。二塁走者が生還し、土壇場でうっちゃられた。

栽の甲子園における「悲運」の始まりである。
首里が甲子園に初出場したとき、選手の平均身長は162㎝。栽が豊見城で甲子園の常連校になったときも、167㎝。
「いずれも、全チームで一番小さかった。沖縄の子供たちが栄養不足だったのは明らかです」

ハンディを補うには、猛練習しかなかった。塁間のウサギ跳び40回を選手に強いたのも、この頃である。
「豊見城時代には、2000坪の畑を借り、子供たちとサトウキビを作った。年間20数万円の利益を出し、ボールを買ったんです」

夏の甲子園大会は、76年から78年まで3年連続、ベスト8に進出したが、いずれも惜敗。ベスト8の壁は厚かった。

沖縄水産に移った85年夏の甲子園大会は、ベスト8 をかけ、鹿児島商工(現・樟南)と対戦。5対5で迎えた9回裏一死満塁。1年生投手・上原晃(後に中日ほか)が渾身の力を込めて投げた球が、ホームベースに当たり、サヨナラ暴投になった。

栽は宿舎に帰ると、雷を落とした。
「おれは許せても、沖縄100万県民は許せんぞ!」

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