■近藤真彦は結婚に二の足を踏んで

 聖子が、復活しても人気が不動なのに対して、その頃から明菜には暗い影が見え隠れする。87年に妹の明穂が芸能界入り。しかし、人気はパッとせず、姉への反発からか、やがて一糸まとわぬ姿を披露する。 「明菜の心中が穏やかでないのは明白でした。また、家族は次々に飲食店を開業します。これは明菜マネーが資本でしょうが、事業はすべて失敗するんです」(スポーツ紙記者)

 恋愛も好転しなかった。 「明菜は多額の結婚資金を用意したといいますが、近藤は結婚に二の足を踏んだようです」(前同)

 そして明菜は、それを悲観してか、89年7月に近藤宅でリストカットをする。幸い命に別状はなく、その年の大晦日、近藤同席の釈明会見が開かれた。 「これはジャニーズ側のお膳立てで、“明菜は結婚発表だと騙された”という憶測も流れました。なぜなら、2人の後ろに金屏風が立てられていたんです。ですが、会見では逆に恋愛関係は否定されました」(同)

 これを機に所属事務所の研音から独立。翌年の夏の復帰シングル『Dear Friend』はオリコン1位を記録する。また、92年には初の連続主演ドラマ『素顔のままで』(フジテレビ系)が高視聴率を獲得した。

 順風満帆のようだったが、舞台裏ではトラブルも。復帰数年で、個人事務所を辞め、別の事務所を立ち上げるということを、2度も繰り返しているのだ。「本人にも問題があるんでしょうが、関係者から人間不信に陥っても仕方ないような仕打ちを受けたこともあったようです。ただ、いずれにしても、扱いにくいタレントの烙印を押されてしまいました」(同)

 さらに家族との関係は悪化。母親の他界(95年)後は絶縁状態だとされる。「精神的に不安定になり、酒量が増えていた。また、食事の際は、なんにでも大量のタバスコをかけて食べるという、奇行も漏れ伝わってきました」(同)

  1. 1
  2. 2
  3. 3
  4. 4