野村克也
野村克也

 投手交代、人材登用、球場外の情報戦に至るまで、指揮官たちは勝利に執念を燃やす。球史に残る名シーンの真実!!

 “1565勝1563敗” 勝ち数が負け数をわずかに上回るこの数字が、急逝した野村克也さんの、監督としての生涯戦績だ。「南海、ヤクルト、阪神、楽天を渡り歩き、監督として通算24年。リーグ優勝5回、日本一3回。たくさん勝って、たくさん負けたのがノムさんです」(スポーツ紙デスク)

 野村監督といえば、データを駆使するID野球が有名だが、マスコミへのボヤキも情報戦の一種だった。「プロ野球の歴史で、ノムさんほど“名将”と呼ばれるのにふさわしい人はいませんね。監督として負け数が多いのは、弱小チームを立て直すために招聘されることが多かったから。あれこれ工夫して強いチームに勝つのが、“野村野球”の醍醐味でした。その意味では、ヤクルトで指揮を執った9年間(1990〜98年)は、異例だったはずです。投打とも選手が成長していき、優勝4回、うち日本一3回と黄金期を築きました」(前同)

 ヤクルト時代の野村監督の教えは、古田敦也(元ヤクルト監督)、稲葉篤紀(現日本代表監督)、高津臣吾(現ヤクルト監督)など、多くの“野村チルドレン”に受け継がれている。「ノムさんの采配には何度も驚かされましたが、印象深いのは、日本シリーズで、あの“天才”イチローを封じ込めたことですね」(ベテラン記者)

 1995年の日本シリーズは、野村監督率いるヤクルトとオリックスの対決となった。その年のイチローは、打率.342、80打点、49盗塁と大活躍。手がつけられない状況だった。「イチローに暴れられたら勝ちはないと考えたノムさんは、えげつない心理戦を仕掛けます。シリーズ前に記者を前に、“イチローより、広島の緒方(孝市)や野村謙二郎のほうが上や”とうそぶいてみせたんです。かと思えば一転、“あれほどの打者だから、自らマスクをかぶって勝負したい”とベタ褒め。イチローを揺さぶったんです」(前同)

 結果、イチローはシリーズを通じて5安打に抑えられ、ヤクルトが日本一に。「“舌戦”の一方で、ID野球も健在でした。イチローの苦手なコースを徹底的に攻めましたからね。“野球は頭でする”がモットーのノムさんの真骨頂を見たシリーズでしたね」(同)

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