■アイドルという存在の複雑さ
また、「20」が映し出すのはフィクションと現実の交錯だが、ここにみられる「現実」パートは、必ずしも素の“事実”を捉えたものというわけではない。
今日のアイドルという職能は、多岐にわたるメディアで常にパーソナリティの開示を行なうことと不可分に生きている。どこまでがオン/オフであるのかを容易に判別しがたいパーソナリティの発露が日々記録され、無数に発信され解釈されてゆく。
それら、いつどのように公開されるかもしれない(されないかもしれない)記録のなかに映されるのは、プライベートと地続きでありながら同じものではない、「乃木坂46の伊藤万理華のパーソナリティ」を彼女自身が体現し、上演している姿である。
「20」は、フィクションから現実(のようなもの)へと移り変わりながら展開したのち、最後に単純なフィクションでもプライベートでもない「乃木坂46の伊藤万理華」としての衣装をまとった姿を映し出し、あらかじめ用意された「台詞」が発されて終幕を迎える。
この締めくくりは、アイドルの人格が受け手に享受されることの複雑さを、一段と浮かび上がらせる。そしてまた、それでもなお伊藤の未来を祝福するような手ざわりを確かに残してみせるのが、頃安という作家の個性でもあるだろう。