■広告代理店に就職して

――大学卒業後、2人とも役者を目指したが挫折。志の輔さんは広告代理店に就職し、リーダーは「渋谷道頓堀劇場」で芸人修業を始めた。

渡辺 志の輔さんがサラリーマンになったと聞いたときは、ホントに驚きましたよ。「あれほどの才能を持った人が……」って。

立川 劇団の養成所に入った1年目は元気に通ってたものの、2年目になると、演劇よりもアルバイト中心の生活になってね。夜はほとんど新宿ゴールデン街で飲んでたんだけど、あるとき、カウンターで横に座ってた顔見知りのお客さんに「うちの会社に来ない?」って誘われたんだよ。

渡辺 役者を諦めたのはその話があったからですか?

立川 うん。ちょうど、そういうタイミングだったんだろうね。それで広告の世界で働くようになったんだけど、何年かしたとき、テレビで『花王名人劇場』(フジテレビ系)を見てたら、ナベちゃんが出てきたんだよ。「アニキ〜!」って呼ばれて(笑)。驚いたなあ。

渡辺 コント赤信号がテレビデビューを果たしたのが80年9月。それから『名人劇場』に何度か呼ばれるようになったんですよ。

立川 道頓堀劇場で頑張ってるのは知ってたから、「やったな、ナベちゃん」って思ったなあ。そしたら、ある日、ナベちゃんが、渋谷にある俺の勤務先にやって来た。そのとき、「今度、道頓堀劇場にコントを観に来てくださいよ。入り口で言ってくれれば、入れるようにしておきますから」って誘ってくれたんだよね。

渡辺 はい、覚えてます。

立川 で、一度行ったんだけど、入り口の人に「あの、渡辺君のコントを観に来たんですが……」と伝えたら、「ああ。コントだけだよ」って言われたのを、いまだに覚えてる(笑)。コントが始まったら中に入れてもらってね。落研時代のように、「ナベちゃんはホントに面白いなあ」と、つくづく感じたよ。

渡辺 いえいえ、そんな。

立川 その気持ちはずっと変わらない。俺が毎年欠かさず足を運んでる新橋演舞場で行われる『熱海五郎一座』(座長・三宅裕司)の公演で、メンバーのナベちゃんの芝居を目にしては、いつも同じことを感じてるよ。

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