■「外禁」の本当の理由
――初土俵は2001年九州場所。井筒部屋には、当時ベテラン力士だった、寺尾関(現・錣山親方)も在籍していましたね。
鶴 ハイ。私の「鶴竜力三郎」の「力三郎」は以前、寺尾関が名乗っていた「源氏山力三郎」からいただいたものですが、その意味を理解できたのは、だいぶ後の話です(笑)。
相撲部屋の生活の面では、師匠(井筒親方=元関脇・逆鉾)に「半年は外出しちゃいけないよ」と言われていました。私は、それが相撲部屋のルールだと納得していましたが、別の意味があったんです。
私が入門した年は、日馬富士関(1月)、白鵬関(3月)が入門するなど、たくさんのモンゴル人力士が入門しました。でも、同じ部屋に何人もモンゴル人がいるわけじゃないから、話し相手がいなくて、近くにいるモンゴル人同士で、夜遊んだりする。そうすると、日本語も覚えないし、相撲部屋にもなじめないという悪循環になります。
師匠は「外禁」にすることで、日本語を早く覚え、部屋や相撲文化に慣れるようにしてくれたんです。そして、普通、若い力士は持てない携帯電話を持たせてくれて、モンゴルの家族と連絡を取ることも許してくれました。感謝しかないですね。
よく「ツラかったでしょう?」と聞かれるんですが、最初から覚悟して来ているので、大変なことはありませんでした。唯一、生ものが苦手なことくらいで(笑)。魚は、なかなか食べられませんでしたね。
――入門して4年、20歳のとき(05年九州場所)には、新十両に昇進します。
鶴 振り返ってみると、いろいろ印象深い相撲はあるんですが、前場所(05年秋場所)、幕下5枚目で5勝目を挙げて(琉鵬戦)、新十両を手繰り寄せた相撲が一番うれしかったですね。同学年の白鵬関や安馬(日馬富士)関は、入門以来どんどん番付を上げていったのに、私はなかなか追いつけなかった。関取になったことで、「ようやく追いついた。同級生には負けられない!」と思っていたんですが、結果は負け越し。幕下にUターンしてしまって。
――そのとき、部屋の行司さんが励ましてくれたとか。
鶴 のちの36代木村庄之助親方(当時、式守輿之吉)が、千秋楽の夜、落ち込んでいる私に声をかけてくれました。
「アナンダ、悔しいのか?明日から部屋の稽古は1週間休みになるけど、悔しいなら、稽古で汗を流してみたらいいんじゃないか?」
おっしゃる通りだと思いましたね。目が覚めました。そうしたアドバイスもあって、ひと場所で十両に復帰した後、1年後には幕内に昇進できました。