■「太ったヒキガエル」伊良部秀輝

 一方、愛甲氏が在籍した当時のロッテで“悪童”と言えば、伊良部秀輝。独占交渉権を持つパドレスとの三角トレードで念願のヤンキース入りを実現させるも、記者からの評判はさんざん。成績が低迷するや、当時のオーナー・スタインブレナーからも「太ったヒキガエル」と罵られた。

「ロッテに保有権があったにもかかわらず、ヤンキースに行きたいと我を通したことで、日本中からバッシングを浴びました。それもあってか、我々日本人記者は特に目の敵。“イナゴ”呼ばわりされて、ペンは折られるし、名刺は破られるし。本当に怖かった」(元在米スポーツ紙デスク)

 だが、その後の阪神時代には、同僚と陽気にカラオケに興じるなど、ナイスガイぶりも目撃されている。ロッテ入団当時を知る愛甲氏も「悪印象は全然なかった」と、こう続ける。

「広岡(達朗)さんと確執があったのは事実だけど、野球に対してはすごくマジメ。本当に素行が悪かったら、プロの1軍で、あそこまでの活躍はできないよ。そもそもヤツは人一倍、繊細。そりゃ、あれだけのバッシングされたら、取材嫌いにもなるでしょ」

 では、その伊良部と“名勝負”を繰り広げたライバル、清原和博はどうか。1989年9月23日、西武球場でのロッテ戦。死球にキレた清原が、相手投手・平沼定晴にかましたバット投げからのヒップアタックは、その後の“番長伝説”の幕開けに相応しい一コマだ。事件の一部始終を見ていた愛甲氏が振り返る。

「キヨがカッとなったのはあの一瞬だけ。VTRを見直せば分かるけど、ディアズにヘッドロックをかまされた時点で戦意は喪失してたよ。翌日にロッカーまで謝罪に来たときには、怒りの収まらない山本功児さんらにクンロクを入れられて、涙ぐんでいたほど。俺に言わせれば、イケイケの“悪童”だったのはむしろ、平沼のほうだよ(笑)」

 確かに、平沼自身は、球界屈指の“武闘派軍団”として知られた星野中日の出身。後にロッテに移籍したが、“喧嘩最強”の噂のあった、かの牛島和彦より、はるかに血の気は多かったという。

「自分もそうだったから、いわゆる“不良”の匂いは嗅ぎ分けられるつもりだけど、あの頃のウシさん(牛島)にはもう、そんな感じはなかった。高校の頃の武勇伝も人づてに聞いていたけど、マウンドでは冷静沈着のひと言」(愛甲氏)

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