■自ら敵役となった野村克也

 今より影響力のあったスポーツ紙が、選手を“悪童”に仕立てあげた面もある。

「江夏(豊)なんかは、性格的に誰とでも仲よくするタイプじゃなかったし、マスコミ嫌いだったから、必要以上に取っつきにくいと思われていたフシがあった。実際の彼は、マジメで読書家。それでいて、自分が納得できないことには、首をタテに振らない頑固さもあるから、とりわけ阪神の首脳陣らにとっては、扱いづらい存在だったんじゃないかな」(江本氏)

 事実、阪神が“V9”阻止に肉迫した73年シーズンには、当時の金田正泰監督との確執が表面化。同僚で左腕の権藤正利が金田を殴打する“事件”が起きると、江夏もこれに同調して「監督の下ではプレーできない」と表明した。

「これも、私の“ベンチがアホやから”の一件と似たようなもんでね。当事者同士というより、マスコミが事をややこしくした面は多分にあると思います。スターともなれば、自然と取り巻きもできてくる。当時は記者の間にも“村山(実)派”“吉田(義男)派”みたいな派閥があったと聞きますし、そうなれば入ってくる情報も、どうしたって恣意的にはなりますよね」(江本氏)

 報道による誤解もあれば、報道を使った挑発もある。野村克也は“挑発”“増長”“敬遠”という自らが弱者の兵法と語る作戦を用いて、王貞治と長嶋茂雄というスターの敵役として、終生、戦った。いわく「俺は野球をやっている。長嶋はゲームをやっている」、「選手では王に負けたが、監督ではいろんな面で勝ちたい」。

 1975年、通算600号本塁打を打った後の記者会見で「向日葵と月見草」となぞらえた、長嶋との対立関係も、あえて敵役を買って出た部分が大きいのかもしれない。

「因縁のライバルと言われ続け、監督時代も親睦を深める機会がほとんどなかった両者でしたが、一昨年に亡くなった金田正一氏のお別れ会で、期せずして二人きりになる機会があったそうです。ともに車椅子で正対した二人はノムさんが“おまえ、頑張ってるか? 俺はまだ生きているぞ”、“おう。お互い、頑張ろう!”と、涙ぐみながら固い握手を交わしたとか。きっと野村さんも、その一瞬で、長嶋さんに対する気持ちが清算できたはず。そもそも二人の間には“わだかまり”なんてなかったのかもしれません」(前出のデスク)

 悪役は、ときに作られる。そして、悪役が魅力的なほど、そこにあるドラマは輝きを増すのだろう。

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