●“赤バット”をひっさげ、プロ野球を牽引
史上初の三冠王にも輝いた中島に見出される格好で、メキメキ頭角を現した川上は、その後、主砲として大活躍。代名詞の“赤バット”をひっさげ、戦後再開したプロ野球を牽引した。
「戦後のある時期、川上さんは、同僚の青田昇さんと神戸の長屋で隣人だった。隔てるのは薄い壁1枚で、音は筒抜け。だから毎日、どちらかが素振りを始めると、どちらかが止めるまで競うように素振りを続けたそうです」(前同)
のちにONにも受け継がれた、“練習の虫”の原点とも言えるだろう。
■勝負強さでは頭一つ抜け出る長嶋茂雄
歴代最多の1658試合で4番を張った川上から、その座を奪う格好となったのが、我らが“ミスター”長嶋茂雄。初めて4番を務めたのは、鳴り物入りのルーキーだった1958年、8月6日。大投手・金田正一をして“あいつはすごい選手になる”と言わしめた4打席連続三振から、4か月後のことだった。
「当時の“4番・川上”は全盛期を過ぎたとはいえ、絶対的な存在で、そう簡単には外せない。一方、ミスターは序盤こそプロの壁にぶつかったが、5月から本塁打王を独走する大活躍。水原監督が両者を天秤にかけ続け、決断したのが8月6日だったんです」(同)
勝負強さでは、歴代4番でも頭一つ抜け出る長嶋。4番であることに強烈な自負を持っていたという。
「ミスターは後年、“4番サード・長嶋のアナウンスに、実は優越感を感じていた。それは王(ワン)ちゃんも一緒だと思う”と本心を明かしていました。平静を装いつつも、強い思いを秘めて打席に立っていたようです」(当時を知る元記者)