■長嶋の盟友、世界の王貞治

 そんな長嶋の盟友・王貞治を、「僕の中で巨人の4番はこの人」と推すのは、投手としてV9時代を戦った巨人OB・関本四十四氏だ。1971年、関本氏が登板した阪急との日本シリーズ第3戦。阪急のエース・山田久志の前に完封負け目前のチームを救ったのが、他ならぬ王だった。

「0対1のまま9回を投げ切った僕に、王さんは“セキ、まだ分からんぞ”と言ったんです。こちらの出塁は3回からゼロ。なのに9回、2死から柴田(勲)さんの四球と長嶋さんの安打で、本当に4番の王さんに回ってきてね。そこで逆転サヨナラ3ランを打ってくれたんです」(関本氏)

 ベンチがお祭り騒ぎする中、若き関本氏はア然とする他なかったという。

「川上さんの後援会だった財界のお偉いさん連中が狂喜乱舞で、なだれ込んできてね。ポケットにねじ込まれた“おひねり”だけで相当な金額になったのは今でも覚えてるよ(笑)」(前同)

 ちなみに、巨人と阪急が初めて相まみえたのがV3を達成する67年。阪急を率いた西本幸雄監督は、西宮球場で行われた巨人の前日練習を、ナインに見学させたという。

「ONの2人が同時にフリー打撃に登場して、1球の打ち損じもなく40発近くをスタンドに放り込んだらしい。さすがの西本さんも、“あれは見せるんじゃなかった”と過ちを認めたというから、阪急選手の心理的なダメージは相当、大きかったんじゃないかな」(同)

 一方、そんな世界の王を攻略した投手もいる。“巨人キラー”として名をはせた阪神時代の小林繁だ。当時、バッテリーを組んだ若菜嘉晴氏は、こう述懐する。

「事前に“(一本足打法で)上げた右足に向かって投げよう”と決めて勝負しました。当時の小林さんは三段モーションとも言うべき独特の投げ方。それでタイミングを狂わせつつ、徹底して足元を狙ったわけです」

 小林は、79年には対巨人戦8連勝をマーク。王は小林を相当意識し、最後は一本足をやめて打席に立つようになったという。

「ただ、王さんを見ていて、“最後まで自分の思う球を待てる。その信念が揺らがないのが4番”だと思い知らされましたね」(前同)

 その“信念”は、ときに審判をも黙らせた。

「当時は、いわゆる“王ボール”っていうのがあってね。他の選手ではストライク判定だった同じコース、同じ高さの球が、王さんの打席ではボールになった。理由は一つ。“あの王が見送ったから”。あの常軌を逸した集中力を間近で見たら、審判でも、そうなっちゃうんだろうね」(同)

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