■モノが違う原辰徳、落合博満や松井秀喜も
その後、大洋に移った若菜氏は、“ポストV9”世代の巨人戦士とも、マスク越しに渡り合った。
「中畑清や駒田徳広、吉村禎章なんかとも対戦はあるけど、僕からすれば、彼らは“4番目の打者”。王さんに感じた“打つ手がない”という恐怖を感じることはなかったね」(同)
そんな若菜氏だが、王以外で“モノが違う”と思った4番がいるという。第48代・原辰徳だ。
当時、大洋に遠藤一彦というエースが君臨していた。
「長嶋さんにとっての村山実さん、王さんにとっての江夏豊さんと同じで、エースと4番は、また別の対決を始めるもの。東海大の先輩である遠藤にとっては、その相手が原だった」(同)
遠藤は、どんなに好投していても、原にだけは、よく打たれたという。
「完封目前で一発を浴びたら、試合に勝っても、翌日の一面は『4番、意地の一発』。そういう意味では、原もまた、正真正銘の“巨人の4番”だったよね」(同)
そして、原と入れ替わるように4番に座ったのが、落合博満。入団会見では、「憧れの長嶋巨人を優勝させなければ、落合家末代の恥」とまで言い切った。
「落合は、引退試合に駆けつけたほどの長嶋ファン。実は、かの“江川事件”でのボイコットがなければ、78年の巨人のドラフト指名は、1位・江川、2位・落合になる予定だったとか。強い言葉の裏には巨人、そして長嶋監督への並々ならぬ思いがあったということでしょう」(前出のスポーツライター)
そんな落合の加入に刺激を受けたのが、当時高卒2年目だった松井秀喜だった。
「ミスターが落合獲得に動いたのは、打撃に対するストイックな姿勢と、優等生にはない“毒っ気”をチームに注入するため。若き松井も大いに感化されたようで、のちに“落合さんには、いい勉強をさせてもらった”と感謝の意を表しています」(前同)
松井は、長嶋監督の「巨人4番1000日計画」によって、見事に才能開花。落合と入れ替わりで入団した新4番・清原和博とともに、“MK砲”を構築する。
清原の獲得を長嶋監督に進言したのは、日本ハムに去った、その落合だった。