■「岡田流がさえた」

 一方、今シリーズ、最終第7戦は左腕・宮城大弥(22)のオリックスに対し、阪神の先発は“想定外”の青柳晃洋(29)だった。

 ここでも「岡田流がさえた」と、藪氏は見る。

「“最初と最後は青柳と決めていた”と本人も言っていましたが、あれなんか、まさに真骨頂。今年の青柳と似た状況だった03年の私自身も、“いつでも行ける準備だけはしておけ”と激励された経験がありますしね。

 ただ、あのときの岡田さんはまだコーチで、何の権限もなかったですから、シリーズでは結局、蚊帳の外ではありましたけど(笑)」

■MVPにも輝いた工藤公康

 同じく最終戦の名勝負では、1986年の西武対広島戦。史上唯一、行われた第8戦目の8回裏。1点リードでリリーフ登板した工藤公康も印象深い。

「投打にわたる活躍でシリーズMVPにも輝いた工藤でしたが、このときは1死一、二塁の大ピンチ。そこへ森祇晶監督がマウンドまで来て、笑顔で“打たれても同点だろ”と声をかけた。

 これで開き直った工藤は、続く打者をダブルプレー。自らの手で、日本一を手繰り寄せてみせたんです」(専門誌記者)

 そんな森監督率いる西武は、野村ヤクルトとの決戦となった92年にも、紙一重の勝負に勝ち、日本一に。

■“弱者の戦略”で強くなっていった

 当時を振り返って、ヤクルトOBの秦氏が語る。

「戦前の予想は軒並み4勝0敗で西武。それをチーム全体で綿密なミーティングを繰り返して、あと一歩まで追いつめた。僕自身、第6戦でサヨナラ本塁打を打っていただけに、第7戦のあとは一人、悔し涙を流した記憶がありますよ」

 勝負を分けたのは、三塁走者だった広沢克己が、本塁で憤死した7回裏。

「彼のスタートの出遅れがなければ、決勝点になっていた」と、秦氏が続ける。

「あのプレーを機に、責任の所在を明確にした“ギャンブルスタート”という考え方が生まれ、翌93年には、西武を相手に雪辱を果たすことができた。野村さんの言う“弱者の戦略”で、負けを力に変えて、ヤクルトは強くなっていったんです」

 レギュラーシーズンとは段違いに、“采配”がモノを言う最高峰の短期決戦。

「アレのアレ」を果たした岡田監督の采配も、未来に語り継がれるだろう。

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