■打者をねじ伏せる“火の玉ストレート”

 江夏と同様に「分かっていても打てない」投球を見せたのが、2006年の第1戦に登場した阪神の藤川球児。パの打者をねじ伏せた“火の玉ストレート”に、観客は感嘆の声を上げた。

 だが、笑みを見せながら“予告”投球した藤川と、9人目の打者が打ち上げたファールボールをキャッチャーに「追うな!」と叫んだ江夏。そこには明らかに質が異なる勝負論があった。

「どっちがいい悪いではなく、少なくともあの頃はそういう雰囲気だった。まして、僕らパ・リーグの選手は、あんなにお客さんの入った球場でふだん野球をやってない(笑)。なんとかして目立ってやろうって気持ちは、やっぱりあったよ」(前同)

 そんなパ・リーグ野球の真髄がかいま見えたのが78年、甲子園での第2戦。山田久志(阪急)、鈴木啓示(近鉄)、東尾修(クラウン)という、パを代表する3エースが継投で全セをねじ伏せた一戦だろう。

「まぁ、あれはリーグがどうこうではなく、お互いの意地の張り合い。“あいつがゼロに抑えたなら俺も”っていう、ただ、それだけだった(笑)。それに、あの年は結局、1勝2敗で負け越した。第3戦なんかは、3打席連続弾の掛布(雅之・阪神)一人にやられたしね」(同)

 有藤氏が、掛布の連続本塁打に「すごい打者が出てきた」と舌を巻いたその年のドラフトでは、掛布より2学年上の遅咲きの天才・落合博満もロッテに入団。

 81年には初の球宴にも選出され、有藤氏と並び立つ存在にまで成長する。

 この年は、落合の他、石毛宏典(西武)や原辰徳(巨人)らが初出場と、世代交代を印象づける顔ぶれがそろっていた。

「全パを率いた西本幸雄監督は“落合は必ずリーグを代表する打者になる”と第2戦で彼を4番に抜擢。実は試合前、4番を打診された落合は“勘弁してくださいよ”と断っていたんです。落合は結果的に無安打に終わったものの、“器が人を作る”の言葉通り、同年、首位打者に。翌年には史上最年少での三冠王と、大きく飛躍しました」(前出のデスク)

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